劇場からの失踪

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『NOPE/ノープ』スペクタクルに向かってを撃て 劇場映画批評79回

題名:『NOPE/ノープ』
製作国:アメリカ

監督:ジョーダン・ピール監督

脚本:ジョーダン・ピール

音楽:マイケル・エイブルズ

撮影:ホイテ・バン・ホイテマ

美術:ルース・デ・ヨンク
公開年:2022年

製作年:2022年

 


目次

あらすじ

田舎町で広大な敷地の牧場を経営し、生計を立てているヘイウッド家。ある日、長男OJが家業をサボって町に繰り出す妹エメラルドにうんざりしていたところ、突然空から異物が降り注いでくる。その謎の現象が止んだかと思うと、直前まで会話していた父親が息絶えていた。長男は、父親の不可解な死の直前に、雲に覆われた巨大な飛行物体のようなものを目撃したことを妹に明かす。兄妹はその飛行物体の存在を収めた動画を撮影すればネットでバズるはずだと、飛行物体の撮影に挑むが、そんな彼らに想像を絶する事態が待ち受けていた。


引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 今回紹介するのは『ゲットアウト』や『US』で一躍ホラージャンルに革新的な潮流を生み出したジョーダン・ピール監督の最新作、『NOPE/ノープ』である。NOPEというタイトルは簡単に言えば、「もう無理!」という感じのきっぱりNOを突きつける形の否定表現である。作品を観ていくとその意味が様々な形で響くのも本作の魅力だといえる。

 主演はキキ・パーマーとダニエル・カルーヤで、本作の肝ともいえる兄妹の絶妙な関係性を見事に演じていた。今年の作品でも一二を争う重要作といえるだろう。

 では早速語っていこう。

 

生存戦略として生まれた「スペクタクル」

 ジョーダン・ピール監督の長編3作目。前二作と比べると一目瞭然なスケールの大きさである訳だが、彼がこれまで描いてきた、「社会に存在しながらも映画が映すことのなかった人々の物語」にカメラを向けるという点では、一切スタンスは変わらない。そればかりか、今回の寓話性と「スペクタクル」の両立は、ジョーダン・ピールの手腕を明らかに以前の評価からワンステップもツーステップもレベルの高いものだと、証明している。
 「映画館に人が戻ってくるような作品」として制作された本作は近年の『トップガン マーヴェリック』に匹敵する劇場体験をもたらしてくれる。それは何故かというとそこに「スペクタクル」があるからだ。1950年以降、つまり戦後かつTV普及の時代において映画の生存戦略として用意されたのが、(映画における)「スペクタクル」だ。
 画面が大きい(また横長である)利点を駆使した映像の撮り方こそが、数多ある「映画的」で一番に分かりやすいものとしてあるのは言うまでもない。しかしそれは、映画が生まれたときから備わっていたものではなかった。
 それ故この生存戦略の中で生まれた「スペクタクル」を必ずしも良しとはしない者がこれまでいた。それは映画の芸術的な側面と商業的な側面のバランスが崩壊し、見世物としての一面を強化するからであり、それは映画を貶める行為に思えるのかも。ただあくまで個人的には最初から映画は見世物だろ!とは思うのだが、「スペクタクル」を売りにする行為は、実際に商業的な側面を強化することになるのは否定できず、CGの登場によりますます議論は絶えない。
 映画の「スペクタクル」は留まるところを知らず進化していく。特に近年の技術的な進歩によってIMAXという規格を手に入れ一新され、1.43:1という暴力的なまでの「スペクタクル」を手に入れた。
このようにかつて映画が生まれた瞬間にはなかった「スペクタクル」は今も尚、映画と共にあり続けている。
 そこで生まれたのが、本作だ。

"スペクタクルを殺す"

 本作は「スペクタクル」そのものに視座を向けさせる。どう向けさせるかと言うと「スペクタクル」を化け物として登場させ、その性質と外見を以て"Gift(祝福)"と" Curses(呪い)"を体感させ、思考させるようになっている。
 その為に必要だったこと、それは徹底的にジャンル映画であろうとし、加えて複数のジャンルを横断することだ。今振り返ると『ゲットアウト』も『アス』もホラー映画というジャンルへの試みのある作品だ。だが、本作は明らかに一つに収めることの出来ない複数のジャンルへの越境がみえる。中でもUFO映画からの怪獣映画という横断は、その化け物の擬態性質そのものの表現になっているし、また最後の西部劇への着地は、マイブリッジを最初の映画とする本作の「工場から帰る人々の映像より馬が駈ける映像の方が映画の始まりとしてかっけーだろ!」というメッセージのように思えて最高なのだ。

 この映画史を逆行するようなジャンル映画の横断は、スペクタクルの存在しないマイブリッジの"最初の映画"に至ることための儀式であり、映画という媒体において"スペクタクルを殺す"という闘いに挑むためには必要なことだったのだろう。その意味でこの映画は複数のジャンルを横断する必要があったのだ。そう考えると最後は西部劇、というより原初的な記録映像だったのかも。Gジャン撮影班4人は明らかに記録映像としての映像を撮ろうとしていたし、スペクタクルvs記録映像の構図の方が納得いく。
 ちなみにだが、冒頭にGジャンの中でマイブリッジの映像が流れている抽象度の高いシーンがあるが、解釈としてはスペクタクルに囚われた映画と見る事が出来る。やはりスペクタクルから解放する物語として読み方は間違っていないのではないだろうか。(もちろん、本作が何よりスペクタクルを讃える作品であることは自明であるので、スペクタクルの功罪のバランスは保たれている)

 

Gジャンとは何なのか。

 続いてそのジャンル横断を可能にした「Gジャン」という生き物について考えてみよう。この存在はジョーダン・ピール監督が「マジで怖いUFO映画」を作る為に創作された存在だ。
 「ジョーズを見て多くの人が水面を怖がるようになったのと同じように、『NOPE』を観て空が怖くなるといいな」(曖昧)という感じのことをジョーダン・ピールが言っていてお前はアリ・アスターかよ!と思ったが、その目論見は成功している。余談だが、『ジョーズ』のせいでなんの罪もないサメが大量に殺されたそうで、その意味では完全創作のGジャンは巨大な鳥のような実際の動物じゃなくて本当に良かった。

 閑話休題。誰の目に見ても明らかなように「Gジャン」は様々なメタファーの受け皿として機能する。その万能さは留まることを知らず、自分はこれを書いている今でも混乱してる。
 いくつか例を挙げよう。
 ①1つは上記の「映画のスペクタクルそのもの」の抽象的な化け物。それは主人公側が姿をカメラで撮り、SNSにあげようと躍起になること=「見世物」にしようという行為からも分かる。彼の中身のない不定形な姿やビニールのチューブで作られているようなアトラクションのような内部構造もその印象を裏付けるが、何より彼の食べては捨て、食べては捨てを繰り返す様が「スペクタクル」や「見世物」を凄まじい速度で消費する現代社会を反映しているようであり、今の「スペクタクル」のあり方そのものを思わせる。

 

 ②またそこから派生して、見世物として消費されることに怒りを示したゴーディと重ねることも可能だろう。彼は見られることで相手を認識して攻撃に出るからだ。その姿はスタジオでゴーディが周りの人々を虐殺した様子に重なり、何よりゴーディが暴れる直前の全員が天井に上がっていく風船を見上げるような状態になった瞬間から始まったことが見上げること(上を見つめること)で襲ってくる「Gジャン」に重なる。特にジュープによって「見世物」にされそうになったとき、馬を残して観客を全て喰らい尽くしている様は決定的だろう。(これまでは食べてたのに今回は馬だけ残すという点に生き物の「食」ではなく「怒り」としての一面がここで強化されるようだ)
 他の生き物に見つめられることは、生き物が元来もつ本能として恐怖を感じさせる。草食動物がその視野を広く持つのは、他の生き物の視線をいち早く察知するためだろう(多分)。その意味で極めて「Gジャン」は動物的だ。


 ③他にも、(というかこれが最有力であるが)搾取構造の化け物であることがある。彼の一方的な搾取能力はその見た目だけで「The 搾取!」という感じがある訳だが、白のカメラレンズのような見た目も明らかなカメラを連想させる。(色は言うまでもない)
 搾取は本作を語る上で一度は出てくるだろう「見る/見られる」というキーワード(それは映画の根幹的なテーマであり、映画が一番に得意とする範囲)と密接な関係にある。
見る/見られるの関係は非対称で加害的な搾取構造が付きまとうものだ。
その見る/見られるを本作は撮る/撮られるの関係も含めて、かつ業界や社会において搾取されてきたBAMEの視点から描くことで恐怖を演出している。
 カメラを向ける側とカメラを向けられる側、カメラの後ろで安全圏にいる人々と中傷の対象として晒される人々。彼らには「見られたい」という欲望があるため、その加害性は無視されがちになるということも本作はジュープを通して描いている。
 撮る/見るという行為の加害性を体現する「Gジャン」に、「見世物」にしてやるぜ!ヒャッハー!とIMAXカメラを向ける一行、意趣返しとしても最高だし、これまで目を向けられてこなかった人々の代表としてOJとエムがいるのがそこにカタルシスを生むのだ。

 

 ④最後になるが、自分が最初に思いついたのが「グリーンバック」の化け物というもの。その印象を抱いたのは、彼が雲の裏に隠れていてそこから出てきたシーン。結構それだけでショッキングなシーンなのだが、彼のテクスチャの裏に隠れるという習性は、CGの裏にある(だが観客はみることの叶わない)グリーンバックを連想させた。他にも彼の"眼"とされる場所は緑で、壁のように広げており、まさにグリーンバックにみえるではないか。
 カメラを向けてはいるが、絶対に映らないグリーンバックはまさにBAMEの映らざる訴えの体現のように思えるし、上記した「スペクタクル」には今では欠かせないものだから合点が行く。そう考えると冒頭にOJとエムがグリーンバックの前にいるシーンが予感として機能するし、映画の最後が"オレンジバック"とも言うべきオレンジのエンドクレジットで終わるのもうなずける。なぜならグリーンバックが搾取の象徴であるなら、OJ達を指し、高らかエンニオ・モリコーネ的な劇伴を流しながらオレンジバックで終わる本作は、映画史的な読みでも、BAMEの映らざる訴えとしても完全勝利なのだ。
(ちなみにグリーンバックのオフセット用の十字な目印はオレンジだ)

 

最後に

と、このように4つの例を挙げたが、他にも幾らでもあるのではないだろうか。自分が思いつくのはこれぐらい。ネットの記事で動物として分類を考えているのを見かけたが、映画の多面性を改めて実感した。またここまで書いておいて、そういった読み解きを相手に押し付けられるのも、カメラの後ろ、画面の手前にいる側の加害性なんじゃないかって気がして後ろめたくなる。どうすりゃええねん。
 いやそんな「見ること」と「加害性」が簡単に結びついてしまうからこそ、OJとエムの「お前のことをいつでも見守ってるぞ」という暖かな相互の視線/ハンドサインが、加害性から解き放ち、見守ることの暖かさをおもいださせてくれるのだろう。

ときに敵対生物であり、憧憬の対象でもあり、空版ジョーズであり、抽象的な概念でもある。そんな存在を生み出したことがまさに本作の白眉であり、発明であり、凄まじい大傑作たる所以だろう。