劇場からの失踪

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『ボーンズ アンド オール』「自分以外の人生について知ること」 劇場映画批評103回 

題名:『ボーンズ アンド オール』
製作国:アメリカ

監督:ルカ・グァダニーノ監督

脚本:デビッド・カイガニック

音楽:トレント・レズナー アティカス・ロス

撮影:アルセニ・ハチャトゥラン

美術:エリオット・ホステッター
公開年:2023年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

人を食べてしまう衝動を抑えられない18歳の少女マレンは、同じ秘密を抱える青年リーと出会う。自らの存在を無条件で受け入れてくれる相手を初めて見つけた2人は次第にひかれ合うが、同族は絶対に食べないと語る謎の男サリーの出現をきっかけに、危険な逃避行へと身を投じていく。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

自分の大好きなフィルムライクなルック、キャスト、ロードムービー、アティカス・ロス&トレント・レズナー劇伴…でありながら、どこか納得のいかない映画というのが率直なところ。それはルカ・グァダニーノ監督由来の「若者の特権」と「食人種の悲哀」なのかがよくわからなくなっている所にあると思う。それでは詳しく語っていこう。

 

「若者の特権」

ルカ・グァダニーノ監督の作品は『君の名前で僕を呼んで』しか観ていないのだが、二作品には「若者の特権」が前提としてあるように感じた
この前提は、若者達の刹那的な情動や身勝手さ(特に美しい容姿や若さ故の"未来"を振りかざすこと)を奨励している。
本作は食人衝動を抱える人達の交流を描き"普通"ではないことが原因の「(人類に有害なマイノリティ故の)孤独」や「(食人に対する)罪悪感」を抱える若者達の苦悩を映しだそうとする。しかしながら、彼らの「孤独」や「罪悪感」は前提である特権性の元にある為、どうしてもその特権を行使された被害者への感情移入を許してしまう

特にその被害者が時代設定的にもマイノリティであっただろうゲイセクシュアルの人であったりするのが、「家族等の悲しむ人がいる」という後ろめたさとは別の原因の後ろめたさを発生させてしまっている。他にもマイノリティーに関わらず、彼らの行動に対してどう感情を持ち込めばいいのか分からなくさせているのは、「食べなければ生きていけない」という状況の切迫さがあまり伝わってからだろう。つまり「飢え」の描写が生ぬるいのだ。人を食べることが唯一の栄養源であるわけでもなく、根源的な欲求としても、どのぐらいの期間なら我慢できるのか、その間の「飢え」はどの程度なのか。そういった食人種のディティールが足りない。

その為彼らの切実であろう"食人"という行為が、前述の「若者故の特権」によって行われたニュアンスが強く表面化してしまっているのだ。
それは彼が人間社会的に存在を許されないマイノリティーであり、そんな彼らが逞しく連帯する話が、現実におけるマイノリティの連帯へと繋がっていくことを阻害にも繋がっていて、設定が活かされなくなっていた。

 

「自分以外の人生について知ること」

ただそういった被害者へのノイズすらも、彼らのナイーヴなロードムービーの中で美談であったり障壁に還元されていき、美しくまとまってはいる。

本作において一番興味深く素直に良いなと感じたのは、「自分以外の人生について知ること」が、ロードムービーの中で常に描かれていたところだろう。
主人公マレンは、食人衝動故に学校には通えるが閉塞的で他者と深い関係性を築きづらい環境で育ってきた。食人を友人に知られ父と逃亡、挙句に父に取り残された彼女のその後の旅は、外側へと興味や関心が向けられ、自分以外の人生を感じ取ろうとする。それは父親や母親の人生について知ることに始まり、彼女自身のルーツに繋がっていく話になる訳だが、本作が良いのは近親者だけでなく、食人の被害者達へも向けられていくことだろう。それは様々な形で描かれるが、大抵は「写真」という断片的なイメージによって語られる。決して情報量としては多くないが、その刹那的な描写の連続が本作のそもそもの撮影スタイルであるカット割り多めの編集とフィルムの粒子感、そしてフラッシュバック演出を多用する方法とマッチしており、人生をコマ送りの活動写真として表現し、「人生の刹那的な感覚」を帯びさせていると感じた。特に走行中の車両から光る部屋を一瞬覗き込むシーンや、印象的な「ドアのノック音」は素晴らしく、他者との人生を覗き見る距離感、踏み入る感覚を見事に表現していた。
そういった描写によって彼らは他者の人生を喰らうことで生きていることを痛感。我々もまた、命を喰らい、他者の人生との相補的な関係の中で生きているのだと、二人のロードムービーを通して改めて気づくことが出来る。
この若さを表象するフレッシュな映像感ががルカ・グァダニーノ監督映画観であり、その一貫性という点で観客を恍惚させるだけの強度はあると思う。

 

 

逆にどうしても気に食わないのは、同じ境遇である食人衝動を持つ人(非若者)達の描き方だろう。特にサリーはめちゃくちゃ露悪的に描かれていたが、彼の描き方には問題がある。彼はまさに「孤独」のまま生きた食人種の成れの果てであり、マレンやリーのifであるはず。
ただマレンとリーのように誰か出会い関係性を築けなかった人物であり、それは突然目覚めた食人性によって人生を狂わされたからに他ならない。だから本来、同情の余地があるはずなのだ。
だが、一切の同情の余地もなく「変質者」として描くのは何故だろう。若者の特権性を前提としている為、「老齢」であることが即ち「悪」であるということ。そして、彼の幼稚もまた「害」であるということ。それは本作においては簡単に美醜に置き換え可能られる。『君の名前で僕を呼んで』において、ゲイは「清潔感あるイケメン同士に限る」というブームの火付け役となったような作品だと認識しているので、相変わらずなのだ。(この点、グザヴィエ・ドランは当事者として自身主演で自身の経験を投影しているので少し違う)
これは穿った見方かもしれない。彼は端的に性犯罪の加害者であり、マレンたちにとっては、どう足掻いても「敵」だ。ただ作品に「敵」が必要だったとしてもそこに同族の「老いて醜くて孤独な人」を置くというのが、やはり稚拙に感じてしまう。

ラストの「食べられる」ことで円環を閉じるためとはいえ、そんな稚拙な「敵」が必要だっただろうか。自分には疑問が残る。