劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『LOVELIFE』部屋の記憶 劇場映画批評83回

題名:『LOVELIFE』
製作国:日本

監督:深田晃司監督

脚本:深田晃司

音楽:オリビエ・ゴワナールオリビエ・ゴワナール

撮影:山本英夫山本英夫

美術:渡辺大智
公開年2022:年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

再婚した夫・二郎と愛する息子の敬太と、日々の小さな問題を抱えながらも、かけがえのない時間を過ごしていた妙子。しかし、再婚して1年が経とうとしたある日、夫婦は悲しい出来事に襲われる。そして、悲しみに沈む妙子の前に、失踪した前の夫であり敬太の父親でもあるパクが戻ってくる。再会を機に、ろう者であるパクの身の回りの世話をするようになる妙子。一方の二郎も、以前つきあっていた女性の山崎と会っていた。悲しみの先で妙子は、ある選択をする。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは、『よこがお』等で世界的にも評価されている深田晃司監督の最新作『LOVELIFE』である。矢野顕子が1991年に発表したアルバム「LOVE LIFE」に収録された同名楽曲をモチーフにした本作は、その曲を映画のラストに流すため、逆算的に作ったということを監督がもたしている。その歌詞が、メロディーがぴったりとハマるようなラスト。今年屈指の作品である。

では、早速語っていこう。

部屋の記憶

部屋の記憶、という言葉が映画を観てふと思いつく。

 かつてそこに誰かが居たという記憶は、部屋という場に紐付けされて頭の中に記録される。その場所と人物を紐付ける「部屋の記憶」が本作では何よりも力強く作用し、本重要なターニングポイントである敬太の死とそれに対する周りの家族の受容も「部屋の記憶」と向き合う形で描かれる。
 「部屋の記憶」が如何に重要なのかを更に説明すると、わかりやすいのは二郎の両親だろう。息子夫婦の部屋であり、以前自分達が住んでいた部屋に上がる二郎の両親だが、父親の方は明らかに不機嫌である。それは二郎が別の女性との結婚直前で妙子に乗り換えたことや妙子がバツイチであることが原因な訳だが、どうも見ていると少しニュアンスが違う。彼が真に不機嫌になっているのは、そういった曰くつき夫婦がかつての住んでいた部屋に住んでいることなのだ。この微妙なニュアンスの違いがまさに、本作が「部屋の記憶」を重要視していることの示唆である。また敬太の死体(遺灰)を自宅に持って帰ることに動揺して取り乱す二郎の母の様子もその例に上げてもいいだろう。二郎の両親は全く以て常識的な人々であり、毒親という訳では無い。それでもそれだけ取り乱してしまうほどに、「部屋の記憶」を大切で、それを拠り所にしているのだ。

 

項対立の選択からの解放

では、肝心の「敬太の死」について話を移す。敬太の死は正しく「部屋」の中で起こる。厳密に言えば「風呂場」だ。それは妙子達にとって呪いとなりうる。何故ならば、その風呂場を見る度に喪失に向き合わなければならないのだから。また呪いという点では、その敬太と過ごした「部屋の記憶」の全てが家族に呪いとして降りかかる。印象的なのは妙子が寝ている時に息子の幻影が横切るように映る場面。自分が最もゾッとした場面でで、何故かと言うとそれは死者を平然と生き生きと描けるのが何より「映画」だと感じたからだ。

 それはともかく、他にも永遠に決着しないオセロや部屋の飾り等が敬太の「部屋の記憶」として残留している部屋で、彼女は敬太の死に対して向き合おうとする。

 ただ本作は中盤から自室でのシーンが極端に減る。それは妙子が元夫であるパクと出会うからだ。葬式のシーンが何より印象的だ。喪服の人々が列をなして花を手向けている。その中に黄色の服に身を包んだ場違いな存在が登場する。いきなり現れて妙子を殴る様は一見、イカれた狂人に映るが、妙子が「痛み」とは別の理由で泣く様には彼女が求めていたのはこんな形式ばった葬式ではなく、泣くきっかけと相手だったのだと気づく。
 ここからこのパクという自分が存在感を発揮するが、彼の立場は妙子の元夫というだけでなく擬似的な息子の役割を発揮するのが興味深い。妙子はそもそもとして社会的弱者に寄り添うことを本望としているが、その対象としていちばん身近だったのは息子、並びに元夫だったのだろう。彼らを繋ぐのは韓国式の手話であり、彼らの共通言語は何よりも強く家族を結びつけている。長らく息子との間でしか使われなかった手話は、ある意味で二人だけの絆に昇華されており、敬太の死後に唯一の相手となったパクに敬太を重ねるのも無理はない。
 パクを過去に見捨てたことも相まって、妙子は献身的にパクを助ける。それが彼女の代償行為、喪失の受容の形となっていくのだが、決してそれで終わらないのが本作のすごいところ。『ドライブマイカー』のように韓国への移動に伴い、彼女のモヤモヤはスッキリするかのように思えたが、行ってみるとそこには元夫の別の息子が居た。
 擬似息子であり、唯一同じ喪失を共有できる相手だと思っていた相手に別の家族があることを知るこの場面は、韓流ポップも相まって素っ頓狂で少し笑えるし、妙子と同じく放心状態に陥らせてくる。葬式で出会った泣きじゃくるパクと結婚式で別の息子を抱きしめるパク、どちらにも偽りはない。だが、妙子の狭まりに狭まった視野にはガツンと来るものだ。
 彼女はついに曲に合わせて踊り出す。『母なる証明』なんかを思い出しもするが、そういった吹っ切れにも本作は落ち着かない。彼女はその様子を見てどう思ったのか。自分の今いる「家族」を思ったのか、それとも自分が喪失を共有する相手かつ擬似息子だと思っていた幻想のアホらしさに気づいたのか。
自分の意見を述べる。
 決着のつかないオセロや和室洋室同居の一般的なアパートの一室が示すのは、二項対立の選択からの解放だ。敬太を忘れる、敬太を忘れずに生きる。この二つは一見して避けられない問として妙子の前に登場する。だが、パクとのエピソードを通して、その二項対立からの解放にたどり着いたのだ。

 

敬太との記憶

ともかく彼女は帰宅する。彼女は部屋に一人座り、二郎を待つ。そこには完全に関係を絶つように分かれた二郎が帰ってくる。何も変わらない、2人の間の喪失の受け入れるスピードの違いは埋まらない、決して二郎は妙子の喪失を共有する相手には充分ではない。それでも彼らは散歩に出かける。そこに敬太はいない。
彼らの散歩風景を部屋から視点で撮る。
かつて「誕生日おめでとう」のサプライズをした公園を横切る様は、「部屋の記憶」を超えてこの団地や街中に敬太との「記憶」があることを思い出させるし、そのうえでこの団地や街で生きていこうとする姿を示している。その素朴ながら二項対立の合間を抜けていくような散歩風景に涙しそうになる。

 

余談だが、ここで言及しておきたいのは、幽霊としての敬太の存在感である。
鳥よけとしてベランダに掛けられているCDの反射光や長回しのショットの数々が敬太の存在感を連想させる。(『ア ゴースト ストーリー』を連想させるシーツのお化けというモチーフそれを加速させる。)
部屋の残留思念のように動くそれだだ、不在である敬太の存在感を「部屋の記憶」と共にこの光が示し続ける。その存在感はまさに妙子の心的風景からの反映だろう。

 

 

最後に

このように深田晃司監督の描く喪失は二項対立からの解放という形で描いている。それはマチューアマルリック監督の喪失の受容の物語と語り口は違えど似ている。比較するのも面白いだろう