劇場からの失踪

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『TITANE/チタン』変化する肉体への恐怖 劇場映画批評第54回

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題名:『TITANE/チタン』
製作国:フランス/ベルギー

監督:ジュリア・デュクルノー監督

脚本:ジュリア・デュクルノー

音楽:ジム・ウィリアムズ

撮影:ルーベン・インペンス

美術:ローリー・コールソン
公開年:2022年

 

 

目次

 

あらすじ

幼い頃、交通事故により頭蓋骨にチタンプレートが埋め込まれたアレクシア。
彼女はそれ以来<車>に対し異常な執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになる。自らの犯した罪により行き場を失った彼女はある日、消防士のヴァンサンと出会う。10年前に息子が行方不明となり、今は孤独に生きる彼に引き取られ、ふたりは奇妙な共同生活を始める。だが、彼女は自らの体にある重大な秘密を抱えていた──

引用元:

gaga.ne.jp

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは、2021年のカンヌで最高賞を受賞した『TITANE/チタン』である。「車とセックスして妊娠する」という設定が唯一無二の作品にしているが、本質はもっと先にある。果たしてどこまでこの映画は連れて行ってくれるのか。それでは語っていきましょう。

 

理解の向こう側の彼女

後部座席に座り、一言も言葉を発さずにエンジンの唸りを模倣する少女。

事故に遭い、頭にチタンを埋め込まれても彼女はまるで言語を忘れたかのように沈黙をする姿は、何か少女の枠を超えたものを感じさせた。

車の上で煽情的に肉体を披露するストリッパー。

まるで車と体を重ねてセックスするが如く身を捩じる姿は、見世物の枠を超えた陶酔があった。

 

接吻を強要してくる男や、同僚の女性とその友人達を鉄製の簪で刺し殺す殺人鬼、そして車と激しく"交わる"女性。上述した二つに加え、これらも全てアレクシアの一面で、彼女の底知れなさが発露している瞬間であり、その際の一貫した沈黙は、彼女を「不理解な存在」として描き出している。

本作の異様さは正に彼女を不理解の存在とするその"沈黙"にこそあるといえるだろう。確かに本作は「車とセックスして妊娠した女性の物語」という異様な設定が屋台骨としてある。だが自らのセクシャルな部分や殺人趣向といった具体的な行動を起こすことを彼女が、異常な行為として認識し、罪悪感なりを感じていれば、本作はそこまで異様な映画とはなりえなかった。前半で一番の見所のシーンだといえる長回しを利用した連続殺人シーンは確かに見事なシーンで興奮するが、そこに一切「きっかけ」や動機を見いだせないことが、異様な雰囲気を作り出していた。

つまり、そういった行為を「当然」として行い、一切の理解を外部に求めず、不理解の存在であることこそが本作の肝なのだ。

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では何故、彼女をそんな不理解の存在として描いたのか。それはLGBTQがフィクションの中で誰かしらに「容認されなければならない存在」として不自然に描かれていた背景に対して、容認を必要とせず自らの性的趣向を臆面もなく発露する存在はアンチテーゼとなるからだろう。そう考えると、本作において不理解は、彼女をモンスターとして仕立てるための印象操作ではなく、我々の「他者を理解できる」という錯誤を撃ち、ごく当たり前の「他者との距離感」を再現のために要請されたものだといえる。

 

そんな不理解の沈黙を発揮する彼女を、ジェンダーという観点で考察しよう。彼女は冒頭では非常に女性的なストリップを見せるが、映画の大半は自らの体を"改造"してセクシーさとは掛け離れた男の姿に扮する。そこにジェンダーの越境を観た気にもなるが、その一方で妊婦のシルエットに近づく彼女への女性的な印象は拭えず、体を自ら縛り上げるアレクシアの姿にジェンダーの越境の限界を感じる。むしろその後の"男"の姿でストリップする姿は、前半のストリップにフェミニンさを感じた観客へのある種の挑発にも思えてくる。このように彼女はジェンダーという点でも、非常に理解しがたいポジションに立つ。これは主演のアガト・ルセルだからこそ成立したニュアンスといえるだろう。

因みにだが、このキャスティングも興味深い。これまでのジュリア・デュクルノー監督作品といえば、ギャランス・マリリエが主演を務めており、Junior』(2011)では初潮について、RAW 〜少女のめざめ〜』(2016)では性欲(SEX)についての物語が描かれ、女性の体に生じる「体の変化」というテーマとギャランス・マリリエという女優の成長を重ねることで、彼女の成長記録としての側面を持っていた。だが、本作ではアガト・ルセルが主演として起用されている。このキャスティングについては色々なことが予想できるが、一つには先程述べたジェンダーを越境できる役者である必要性があるだろう。ギャランス・マリリエはあまりにフェミニン過ぎるのは同意である。実際どういった心境の変化なのか。自分としては、その成長記録としての一面をまだまだ見てみたいので、テーマ次第だが、次回作ではギャランス・マリリエの主演作を期待したい。

 

 

変化する肉体への恐怖

ジュリア・デュクルノー監督は上述したように、女性の体に生じる「体の変化」を取り扱っており、そのテーマを骨子とした異質な価値観を提示する映画を生み出してきたRAW 〜少女のめざめ〜』(2016)では"生肉"、特に人肉の虜になった女子大生を通して、肉欲(性欲と食欲)に目覚めた「本当の自分」との解放と受容をグロテスクに描いた。対して、本作では"肉"という有機的なモチーフとは正反対の無機質な"鉄(チタン)"を通して「不可避の身体変化への恐怖と受容」を前作同様、グロテスクに描いている。肉と鉄、そのモチーフの対称性は、主体を「解放するもの」と「束縛するもの」として、意図的な対比がなされている。(両者において欲望の捌け口として"車"が関係してくるのも面白い)

私を含めて多くの人が「体が突如として変化する」と言われれば、誰しもが恐ろしいことだと共感できるだろうが、「妊娠する」と言われるとたちまち想像力は欠如し、当事者の感じる不安や恐怖はないものになってしまうのではないだろうか。本作はそんな人々全てに等しく、妊娠した女性が少なからず感じる恐怖を追体験させる。その手法は以前取り上げたアリ・アッバシ監督の『マザー』での出産の神秘性とグロテスクさを描き方に近いながらも、より母体の変化にフォーカスしているのが特徴だといえる。

www.arch-movie.com

ジュリアン・デュクルノー監督は、非現実的な価値観や描写によって、女性に確実に起こりうる普遍的な現実を拡張して提示し、一見ありえない事のようで、現実に全く遜色のないことが起こっている、という構造が毒々しい。ただ本作は女性の体の変化に留まらず、男性の感じる老いへの恐怖を描いている点で興味深い。アレクシアを行方不明の息子として引き取った消防隊の隊長ヴァンサン(ヴァンサン・ランドン)は、高齢であるにも関わらず、その職業の性質上、その肉体を誇示しなければならなかった。(元からマチズモ的な価値観の男性だったとも推測できる)

だが、老いと共に肉体が衰えるのは必然であり、体が加齢で思い通りにならなくなっていく恐怖は、正に「不可避の身体変化への恐怖」としてヴァンサンを襲っていた。こうすることによって不可避に起こる身体の変化は、ジェンダーレスな恐怖なのだと描くことが出来ていた。

 

家族の必要性

前半がアレクシアという殺人鬼の犯行模様と逃避行を描いていたのなら、後半はなんと表現すればいいのか。後半は前半の分かりやすいスプラッターホラーテイストから、パラノイア風味のホラーにテイストを変えていく。消防署というホモソーシャルな環境に放り込まれた"偽りの息子"。この環境を異常にしているのは、誰の目から見えても明らかに息子ではないと分かる冗談みたいな状況を許容し、破綻させないように父権を行使するヴァンサンだ。偽りの息子アレクシアと父長ヴァンサン、この黙認された特殊な利害関係で結ばれた擬似家族が本作後半の中心になっていく。(ここにおける消防署描写が『RAW〜少女のめざめ〜』の大学生描写に通ずるディスコ感があって良い)

 

思えば『RAW 〜少女のめざめ〜』においても"家族"という要素は強く存在していた。ベジタリアンの家系に生まれたが故に、両親に食事を制限されていた主人公のジャスティンは、最後にはその人肉への誘惑が、血筋に由来するのだと知る。ベジタリアンであることを強制していたのは彼女を想っていたからこそだと分かるラストは、両親や姉といった家族が"理解者"で、両親がこれまでに育んだ難しい形の愛を悟らせ宿命と対峙していかなければならない今後を予感させるクリフハンガーとして見事であった。『RAW 〜少女のめざめ〜』において、実の家族は主人公にとって"答え"と"未来"だった。対して本作のアレクシアにとっては実の家族は、形骸化した取るに足らないものでしかなかった。それは何故だったのだろう。彼女と両親(特に父親)の不和は、幼少期の車内シーンから始まり、自宅でのぎこちない距離感の会話等で描写はされつつも、スルー出来るほどのものだったが、家族に殺人がバレそうになって、躊躇いなく家を放火するシーンでは、彼女にとって家族という連帯が欠片も大事でないことが分かってしまう。だがしかし、最後に判明するのは、彼女もまた、「親からの愛情を欲する娘」であったということ。恐らくこのラストだけが、唯一彼女の弱音が漏れだした瞬間だろう。ラストの二人は身体的変化への恐怖を唯一共有出来る関係として完全となる。

このツイストから分かるのは、"家族"でなくとも、自らの痛みを共有出来る理解者との連帯こそが大事だということだろう。『RAW 〜少女のめざめ〜』もまた、たまたま理解者が家族だったに過ぎないのだ。

このように『TITANE/チタン』はジェンダーや家族、そういった社会規範を尽く破壊し、未曾有の価値観を伝える作品になっている。

 

最後に

私の好きな台詞に次のようなものがある。

「知っておいて損はない。おれたちは、祝福されて生まれてきたんだってことを。」

何が産まれてこようと、それが産まれてから何をしようと、産まれてくる時は祝福されて産まれてくる。いや、そうであるべきだと言った方が正しいかもしれない。

本作もまた、生まれた何かについて物語だ。その出産という行為にはここまでに描かれた全てを神秘として納得させてしまうカタルシスがあり、祝福するものが一人いるだけで、そこには幸福があるのだと確信させる。

カルト的な異様さに収まらず、思わぬところまで連れて行ってくれた本作は傑作だと言わざる負えない。