劇場からの失踪

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『逆転のトライアングル』悲しみの三角のほうが絶対良かったよね 劇場映画批評117回 

題名:『逆転のトライアングル』
製作国:スウェーデン

監督:リューベン・オストルンド監督

脚本:リューベン・オストルンド

撮影:フレドリック・ウェンツェル

美術:ヨセフィン・オースバリ
公開年:2023年

製作年:2022年

目次

 

あらすじ

モデルでインフルエンサーとしても注目を集めているヤヤと、人気が落ち目のモデルのカール。美男美女カップルの2人は、招待を受けて豪華客船クルーズの旅に出る。船内ではリッチでクセモノだらけな乗客がバケーションを満喫し、高額チップのためならどんな望みでもかなえる客室乗務員が笑顔を振りまいている。しかし、ある夜に船が難破し、海賊に襲われ、一行は無人島に流れ着く。食べ物も水もSNSもない極限状態のなか、人々のあいだには生き残りをかけた弱肉強食のヒエラルキーが生まれる。そしてその頂点に君臨したのは、サバイバル能力抜群な船のトイレ清掃係だった。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

全方向に喧嘩を売りまくり「特権を持った人間は浅ましい本性をさらけ出す」と語る。そこには富裕層と貧困層の垣根はないのだ。貧困層の人間がひとたび"特権"を持てば富裕層の如く特権を行使するという三章があるおかげで、プロレタリア的な視点だけではなくフラットに視野を広げ、常に逆も突こうとする作品になっていることは間違いない。


本作は三章構成になっている。一章がファッション業界、二章ではクルーズ船、三章では島が舞台となっている。カールとヤヤというモデルのカップルが一貫して主人公的な立場に立ち、状況によって変化する関係性がメインのドラマとしてあるのだが、1番興味深いはそれぞれの舞台で構成されるコミュニティーでの相関である。
では詳しく書いていく。

 

一章について

ここでは男性モデルであるカールの視点を通してブルジョワの巣食うファッション業界のリアルを垣間見ることとなっていく。
男性モデルの収入が女性モデルの1/3であり、ゲイの業界権力者に脅かされることが多いという監督のリサーチに基づく事実などもそうだが、特に本作において象徴的で重要なのは、オーディションの一幕だろう。彼は審査員の前でモデル歩き、つまり"ウォーク"をする訳だが、その際に顔の"悲しみの三角"と呼ばれる眉間のシワを指摘される。この"悲しみの三角"が実は本作の原題であるTriangle of sadnessのことであり、ラストシーンにも効いて来ることになる。
このオーディションの一連のシーンにはファッション業界の酷いルッキズム、くだらない価値観で回る世界であることが露見されている

ルッキズムに支配された空虚な世界、社会問題すらも"ファッション"であり、金と承認欲求だけで回る世界。先の男性モデルのことも踏まえて、如何に歪んだ世界であるかが分かるし、この空虚さがブルジョワ層に通底する属性なのだと伝わってくる。

ここには貧富やジェンダー格差、そういった問題が垣間見えて来るのだが、一章後半の食事の割り勘に関するシーンはそれらを上手く絡めたアイロニックなシーンになっていた。不毛な論争の中で絶妙な建前と本音の交錯し、激情に達して最後にはらぶちゅっちゅな流れは最高に笑えた。
本作には"逆転"というキーワードがふさわしい展開が度々訪れるのだが、この割り勘騒動はモデルの収入の格差が一般的な世間の格差と"逆転"しているからこそ、昨今の割り勘問題の炎上とは違った示唆になっていて面白く、貧富の格差とジェンダー格差がどう優先されるのか、どう駆け引きの材料にされるのかをリアリティーを以て描かれていて見事だった。エレベーターのシーンは、『フレンチアルプスで起きたこと』でのスキー場の歩く歩道に似たオートの移動手段を使った馬鹿馬鹿しいシーンだといえるかもしれない。


二章について

ここから本作の面白みである群像劇的な展開になっていく。一応はカールとヤヤという主人公を軸に置きながらも、彼らの出番は少なく、代わりに船に登場する客や搭乗員にフォーカスされる。一種の社会の縮図が構築された船では、富裕層と労働者層が密室空間に押し込められることで渾然一体としたカオスが形成され、あらゆる社会風刺が羅列されていく。
富裕層の中でもグラデーションがあることが一章以上に色濃く分かるし、その富裕層に従順に振る舞うことで金を貰っている労働者層がいて、その下に清掃員がいるという階層構造が可視化される。その中でもカールが、搭乗の清掃員に嫉妬を原因としてクレームを入れたことで船を降りることになったという下りは、一番リューベン・オストルンド節を感じさせられた。(降りた搭乗員がその後の事件からなんを逃れるという皮肉もいい)

また特に馬鹿馬鹿しいのは船員全てに「泳がせる」というイカれたブルジョワの戯れだろう。特権階級が歩み寄る、或いは「分かってる」風に振る舞う偽善がなんと馬鹿馬鹿しいことか、というかまじ迷惑なんですけど!!ということが、如実に伝わるものになっていた。
これも"悲しみの三角"同様にラストを考える上で大事なところで、金持ちの良かれと思ってやったことが、果たして貧困層にとってに"良きこと"なるのかという話。
これはそもそも貧困層の人にとって必要なものでは無く、富裕層の"したいこと"をやってるだけに過ぎないという問題がある為、本当アホらしいのだが、一章でのファッション社会問題にも通ずる空虚さを抱えている。

そして本作の白眉、というか一番笑える場面なのが吐瀉物に排泄物のオンパレードのキャプテン・ディナーの下りだろう。富裕層の体裁ばかり気にする習性はSNSでの承認欲求と親和性が高いことは、主にヤヤの行動から分かることなのだが、その体裁ばかりに気を取られて最悪に行き着くのがこの場面で、空虚さからくる全てをここで一笑に付している。
船は嵐で荒れに荒れてる。カメラも揺れに揺れて、明らかに楽しいディナーって感じはしない。船酔いからくる不調は画面の至る所から伝わってくる訳だが、誰もがそのことを無視する。このディナーは我々ブルジョワに許された特権であり、優雅に堪能されるべきだという強迫観念によって、異常な状況を無視するのだ。
船酔いよりもそのディナーから退散することの方が彼らには耐え難いことだという馬鹿馬鹿しさがここには詰まっていて、自分はアリ・アスターの言葉を思い出していた。アリ・アスターは「時として肉体は精神を裏切る」という話をしていて、本作におけるこの場面は「船酔いで今にも吐きそうな肉体」が「体裁を保とうとする富裕層の精神」を裏切るという場面になっていると思うのだ。だからこそ強烈に面白い。


監督はここの場面に、富裕層へのある程度の同情を観客に感じて欲しかったと述べているが、実際「ざまぁみろ」としか感じなかったのだが、皆さんはどうだろう。


この船上の群像劇には脳卒中での障害を持つ人や軍事産業で財を成した老夫婦、クソで生計を建ててるロシア人大富豪など、バラエティ豊かな人物配置が行われている。それらは多角的な皮肉エピソードを描くばかりではなく三章への準備としても機能しているのだ。


第三章について

これこそが監督の描きたかったことであるとパンフレットに書いてあり、船での話はそこに向かう為に後から考えられたものだそうだ。その為か、第一章第二章で積み上げたものが三章でしっかり活かされているというのが中々面白いのだ。
例えばカールとヤヤの関係性は、第一章のヤヤ優位の関係が逆転して、ヤヤがメンヘラ気味になっている。また皮肉にも肉体的かつルッキズム的に無人島で優位を手に入れたのはありがちな美人女性ではなく、男性モデルのカールというのも第一章の積み上げがあるからこそ。
また一章で築き上げたルッキズム、或いはSNSでの満たされようとする承認欲求などが無人島では無意味と化しているの同じく、積み上げがあればこそだ。


無人島でのヒエラルキーの逆転は第二章での"船"という社会の縮図がそのまま持ち込まれたからこその展開で、船の登場人物たちが無人島で無力に苛まれ、体裁を捨てた行動に走ったり、かつての富裕層的習慣から抜け出せずにいるような行動が面白かったりする。(『オールド』のような社会の縮図的な1面もある)
特に面白いのが脳卒中の女性を生還者として用意したこと。彼女もプリッツみたいなお菓子を食べたのにも関わらずお咎めなしだったり、お荷物だとか誰も言わない一定のモラルがある感じが、無人島での切迫感や緊張感、過度な野性性を排除してあくまで寓話的であることを保てていたと思う。

三章において、やはりそのラストが考えがいのある部分だと言える。無人島だと思っていた場所が実はリゾート地だったという驚愕の事実。その詳しい話をする前に、この場面が「現実か否か」への見解を表明しなければならない。
自分はエレベーターは現実だと思っていて、その直前のブランド品を売りに来た黒人男性は幻覚だと思っている。エレベーターが現実であるという考えについては、その方が彼らの逆転したヒエラルキーが実はリゾート地で起こったことという最大のアイロニーになると思うからだ。またその直前に幻覚を描いて、そのアイロニーすらをストレートには描かないという所もリューベン・オストルンドらしい所だろう。
というのを踏まえて、ラストについて考えたい。
あのラストはこれまでの逆転したヒエラルキーを正常に戻す現実の提示だった。あの状況で不利益を被るのはアビゲイルのみ。だからこそ、あのアビゲイルとヤヤのみが真実を知るという状況はスリリングになりうるのだ。
ヤヤが見つけたのが"エレベーター"というのも興味深い。あれは一章のエレベーターでの掛け合いのシーンおかげで"かつてのブルジョワな日常"の象徴として登場する。異質な存在感も凄まじいが、何より分かりやすく明快な"ゴール"のように表れ、その昇降機能によって、逆転した状況を覆しうる機能があることを提示しているのがいい。
対してアビゲイルは何をするかというと、石を手に持ち"ウォーク"するのだ。それも彼女の顔の眉間の皺、つまり"悲しみの三角"にアップして強調しながらだ。第一章ではルッキズムの象徴だったものが、全く以て意味合いの異なる危機迫る表情として表象される、アイロニーは最高潮に達する。
そこまでの流れでヤヤはアビゲイルへと心を許し、一方的ではあれど友情が芽ばえる。だが日常が取り戻せるとなったとき、ヤヤは全くの悪意を持たずに「アビゲイルを救いたい、私の付き人になってよ」と言ってしまう。アビゲイルの持つ石がヤヤの頭蓋を砕いたかは描かれない。だが、第二章で描かれた金持ちの偽善が決して貧困層の為のものではないという下りを観た我々には、その結末は分かりきっている。
だが、一方で第二章と違い、窮地を経験して共有することで、真に繋がりを持った彼女たちにとって本当にその悪いなき善意は届かないのだろうか?と考えてしまう。そこには醜悪な偽善へのアイロニーとは違う富裕層からの真摯な救いの手があるのではないか。今試されているのは、労働者層側のアビゲイルなのではないかとすら、見えてくる。
見え透いたバットエンドのようで、どこか人の善性を信じたくなるラストでもあり、そしてカールの疾走によって、ひとつの恋愛映画としても結実する。

見事なラストだったのではないだろうか?