劇場からの失踪

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映画批評『仮面/ペルソナ』-「本当の自分」なるものは本当にあるのか-

題名:『仮面/ペルソナ』
製作国:スウェーデン

監督:イングマール・ベルイマン監督

脚本:イングマール・ベルイマン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

公開年:1966年

製作年:1967年

 

 

あらすじ

舞台女優のエリザベートは仕事も家庭生活も順調で何不自由ない生活を送っていたが、突如として失語症に陥ってしまう。海辺の別荘で療養生活を送ることになった彼女は、献身的に世話をしてくれる看護師アルマと親しくなる。しかし共同生活を続けるうちに、互いの自意識の仮面が徐々に剥がれ落ちていき……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり


ペルソナという題を持つ本作は、表情や感情等、一個人を定義する大多数を、あたかも映画(フイルム)かのように、人というスクリーンに投影する行為に他ならないとアルマとエリザーベットの同化への道程によって描いている。
アルマは看護婦で、エリザベートは精神的で舞台を降りた女優、彼女らはアルマの療養施設で治療する目的で共同生活を始めることになっていく。

エリザベートは一言も喋らず、アルマは逆に身の上話を延々と話している。その構図は本来のメンタルカウンセリングの真逆になっていて、違和感を感じさせる。次第にアルマはエリザベートに自分を重ね始め、「鏡に映る私が貴方に似ているように見えた」などと語り始める。だが、その事にも一切口を開かないエリザベートは、実は思いの丈を手紙に書き、アルマの行為を不気味に感じながらも「観察」して面白がっていた。そのことを知るアルマは、先程までの陶酔や信仰に近い面持ちだったエリザベートに対して怒りを露わにして行く。


と、ここまでの流れが本作において重要な部分となってくる。
そもそもとしてエリザベートが無言となったことは、
舞台の女優と観客の「見られる側」と「見る側」の関係性の解放があったと推測される。なぜなら、本作の冒頭の少年が、まるでカメラ(画面)を認識したように、見ること/見られることの関係性こそが主題だと提示しているからだ。


特にそれが顕著なのが、アルマの感情の変遷だろう。無口なエリザベートに延々と喋るときに気持ちよく喋る様から一転、彼女が怒りを覚えたのは「見ることによって消費されていた」ことに気づくからだ。言い換えれば、不均衡な関係性が表面化したからとも言えるかもしれない。それはエリザベートが舞台上で、見られることに対して理不尽さを感じ、見られる側を降りたのだと推測させる。だからこそ、エリザベートは「見る側」の存在として、アルマを「見る」のだ。
この関係性は言うまでもなく、映画という媒体の窃視の性質に当てはめられる。我々観客もまた「見る」側であり、安全圏にいる存在だ。そんな我々に本作は冒頭の少年や作中の何度も印象的に撮影されるアルマとエリザベートのアップの映像によって、「見られる側」に引きずり込もうとする。不均衡な関係性を破壊しようとするのだ。その行為になんの意味があるのか、それは一つに「投影」することの倒錯的な一面、禁忌的な魅力を描くことにある。
またアルマとエリザベートの一連の流れに立ち戻るが、アルマがエリザベートに対して過去の恥ずかしい話をしてしまうのは、エリザベートが「物言わぬ存在」だからだ。人はそういったクリーンや鏡の向こうの存在に、自らを投影し、理想を象る。だからこそ、相手が完全な他人にも関わらず、話してしまうのだ。

その行為の先にアルマとエリザベートは画面上で重なり、同一化していくのだが、それはある種のイマジナリーフレンド的な解釈もできるし、自らのペルソナを剥いだ先に本当に「本当の自分」なるものがあるのかを考えさせる。特にアルマの後半の「演技」か否か定かでない展開が特にそうさせる。

 

見る/見られるの関係性の逆転、投影するというモチーフ、そして本当の自分の曖昧さ、そして全編に散りばめられた「映画の正体」を分からせるような演出、それらの要素が有機的に融合したのがこの映画だと私は感じた。

ベルイマン恐るべし。