劇場からの失踪

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『水俣曼荼羅』20年で辿り着いた悟り、辿り着けなかった平穏  劇場映画批評27回

 

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題名:『水俣曼荼羅』
製作国:日本
監督:原一男監督
公開年:2021年

 

目次

 

1956年に熊本県水俣市で水俣病が公式認定されてから65年、1968年に国がチッソによる公害を認めてから53年経った2021年、本作は公開された。

2022年一発目に語っていきたい作品は『ゆきゆきて、神軍』で知られる原一男監督が、20年の歳月を掛けて国家権力と水俣病と闘う人々の姿を追った372分のドキュメンタリー、『水俣曼荼羅』である。

約6時間の大長編であり、第一部『「病像論」を糾す』、第二部『時の堆積』、第三部『悶え神』の三部構成で水俣病の現在を描き出している。無知な観客(自分も含めて)への啓蒙と絶望的な状況を実直に捉える意図だけではなく、水俣病患者の暮らしや心理に迫ることで決して暗いだけの内容にはしない、微笑ましさもある作品になっているのが本作の素晴らしいところであった。最近観た長尺のワイズマンのドキュメンタリー『ボストン市庁舎』と自分は比べてしまうのだが、ワイズマンが限りなくカメラを"透明"にして人の姿を捉えるのに対し、本作は原一男との対話形式で、ぶつかり合いすらも描かれるという特徴があり、そこもかなり面白いところだった。

 

各部が二時間弱ある大長編であるため、全てに触れることは出来ないのだが、色々と書いていきたい。

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第一部『「病像論」を糾す』では「52年判断基準」の根拠となっている病巣の「末梢神経」説を覆し、「中枢神経」説を提唱した浴野医師と二宮医師の功績、そして裁判に関わっている未認定患者達の裁判と交渉の様子が描かれている。

色々と知らない言葉を丁寧に説明されていくが、話題の最も中心にあったのは「52年判断基準」だ。簡単に説明すると、「52年判断基準」は病巣が末梢神経にあるという「末梢神経説」に基づく水俣病認定の基準である。この基準によって多くの患者が政府に水俣病として認定されず、言ってしまえば詐病扱いされている現状があったのだ。

そんな現状に対し、浴野医師と二宮医師が30年掛けて証明し、52年判断基準を根底から支えていた「末梢神経」説を否定してみせたのが「中枢神経」説である。

彼らが提唱した「中枢神経説」とは、病巣が末梢神経ではなく、脳の中枢神経にあるという"病像論を糾する"ものであった。この病巣の違いが明らかにしたのは、これまで認定棄却をされていた大多数の患者が訴えていた症状こそが、水俣病のスタンダートな症状であり、政府は多くの救済すべき患者を見逃していたという驚愕の事実であった。このように第一部からは観客の水俣病に関する古びた知識をアップデートし、映画を進行する上での前提を共有する意図が感じられる。

 

そもそも知らない水俣病問題の前提である「52年判断基準」を説明し、二人の医者の30年に渡る仮説と検証、そして最高裁判所での関西訴訟を通して「52年判断基準」を覆そうという最終目標の設定を描いていて、これだけでまだ三分の一というボリュームに驚くのだが、本作の抱える大量の情報量は大きく分けて三つに焦点を当てることで整理できる。そこでここからは三つの焦点に分けて語っていく。

 

国や県といった権力との裁判闘争

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一つ目の焦点は言うまでもなく、国や県といった権力との裁判闘争である。

冒頭、水俣関西訴訟の判決後の交渉シーンから始まり、非常に緊張感ある内容が展開されていく。会議室で対面し、怒りを露わにし、必死に役人に訴えかける水俣病患者とその関係者。対して、無機質で一辺倒な対応をする役人側。こういった会議室でのシーンはこの映画で人物は変われど、何度も何度も長尺で繰り返される構図である。民衆が国を動かすには、権利を行使して裁判を起こすしかなく、この映画においても最高裁判所での勝訴が大きな目標として掲げられ、第一部では大きな”戦績”として語られる。だが、何度裁判を繰り返しても、その変化は個人の認可という微々たるものであり、繰り返せば繰り返すほどに、個の無力さや国家権力に訴えていくことの疲労感をひしひしと感じさせてくる。

何よりもそのことを感じさせてくるのは未認定患者である溝口さんや川上さんといった訴訟当事者の言葉であろう。

「国とか県とかに個人で裁判をおこすもんじゃない」

長年の努力が報われ、勝訴した末にもらした川上さんの言葉は重いものであった。また、別の訴訟で最終的に勝訴した溝口さんだが、裁判所の判決からは結局の根本的な「52年判断基準」の撤回には至れず、第三部『悶え神』では勝訴の虚無さについて語られていた。

そういった長年水俣病問題の中心に居た彼らから滲み出た言葉に、個が国家権力に挑むことの限界を表面化していた。

 

本作が捉えた「国と個人の闘争」という焦点から見えてくるのは、個が相手取れるのは個だけであるという事実と、何よりも絶望を生んでいるのは時間だということである。

第一部において、国や県側の役人にフォーカスすることで、ある程度の同情を誘い、どちらも人だというフラットな視点が描かれていると思う。だがそれはつまり、個が相手に出来るのは個でしかなく、交渉の場で役員を罵倒し謝罪させたとしても、船首に括りつけられた生贄を相手にするだけに過ぎず、国という大きな船の進路を変更することは出来ないということでもある。

そしてそのスケールの差以上に絶望を感じたのは、個人それぞれは寿命という有限な時間で生きているため、有限な時間の中で闘わなければならないのに対し、国はほぼ無限に感じられるような時間感覚でいられるということである。水俣病が認定されてもう60年近くが立ち、当事者やその子供である準当事者たちもかなり高齢になってきている。水俣病は遺伝しない、そして水俣病はいまのところ埋め立てることで封殺されているため、あと二三十年もすれば、国を訴える人がいなくなってしまうのだ。例え生きていたとしても、長い裁判は川上さんのように疲労を蓄積させるだろう。対して国という概念においてはただ、待っていればいいだけの話、つまり水俣病は国にとって待てば解決する問題なのだ。

時間について最も触れている第二章『時の堆積』では、和解金210万という僅かな金額で和解してしまう彼らを捉えているが、長い時間が風化させた"被害者としての意識"についても、そういった時間の経過と共に劣勢に立たされる現実をフラットに描いた部分でもあった。

 

国と個人、その時間感覚の強烈なギャップが打てども響かない国の対応や、疲弊していく患者の姿に私が感じた絶望感の正体だ。

第一部『「病像論」を糾す』で30年も掛けて暴き出した「52年判断基準」の間違い、延々と繰り返される裁判と交渉の様子、そして画面に映る高齢な人々。そこには時間の経過と残虐さが映し出されており、20年に渡って製作した結晶でもある本作だからこそのリアリティである。

 

 

医学的な見地

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二つ目の焦点は医学的な見地についてである。第一部から常に登場する浴野医師と

二宮医師を中心に据えての展開も本作の見どころで、医学的な見地と当事者たちの感情の軋轢も非常に考えさせられるテーマである。ただ自分は、底にまつわる細部が非常に面白いと感じた。自分が一番衝撃を受けたのは脳みそを電車で運搬する姿や脳みそを切り刻む様子であった。医学部生ならもしかしてなんてことないのだろうが、かなりショッキングな内容だった。

他にも医療の界隈における面子の問題、正論が正しいとして評価されない息苦しさは、水俣病に直接的に関わる問題ではないが、間違いなく本作の弱者の声に寄り添おうとする本質に準ずるものだった。

(ここの章については多くは触れない、コスパ的に)

 

 

生活者としての水俣病患者

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三つ目の焦点は生活者としての水俣病患者である。

ここにきてようやく触れるのだが、本作は絶望的な雰囲気漂う暗いトーンと穏やかな日常を切り取った明るいトーンで構成されていて、明るいトーンのほとんどを占めているのは生活者としての水俣病患者を描いたシーンだろう。この映画では被写体に対して、非常にプライベートなところまで迫っていて、そこに映し出される我々となんら変わらない日常の穏やかな暖かみまで捉えていて、エンタメを意識した編集を含めて素晴らしいところだと思っている。

第二章では、生駒夫妻の日常を水俣病発症から二人の馴れ初めまで踏み込み、また第三章ではしのぶさんのセンチメンタルジャーニーとして過去の彼氏巡りをしている。ここら辺が一番劇場で笑いが起こったところであった。

この映画に登場する水俣病患者とその関係者たちは、誰もが強い意思を以って国との訴訟を闘っている。いわば闘争者であるのだ。だがしかし、それは一側面に過ぎず、彼らは我々と変わらない一般人でもあるのだ。

彼らが国との裁判闘争する姿を見ていると忘れてしまいそうになってしまうが、多くの水俣病患者には生活がある。この映画は、それを裁判闘争と並列させて一環として描いている。それは本来の彼らの姿も一緒に映さなければ、意味はないのだと分かっているからだろう。この裁判、そして水俣病問題の最終目標は「52年判断基準」だと前述したが、多分彼らにとって本当の意味でのゴールは"平穏"なのだ。

だからこそ、彼らがこれらの闘争を通して取り戻そうとしているものの一部をこの映画は、裁判と同様の比重で描き出す。

だが一方で、彼らの生活に肉薄すればするほど、闘争に身を置かねばならないことへの嘆きと失われてしまった平穏への悲哀に気づかされる。

 

「私たちは闘う為に生まれてきたわけじゃない」

 

この言葉は第三章『悶え神』で溝口さんと環境省による交渉の場で、緒方さんが口にした言葉だ。テロップも付かなければ、強調された言葉でもない。だが、この言葉が一番に刺さった。それは何よりもその嘆きと悲哀に満ちた言葉だと感じたからだ。

 

第三章で描かれるしのぶさんのセンチメンタルジャーニーの中で、闘争こそが彼女だと彼女の友人は語る。だが、自分は身勝手にもすぐに人を好きになってしまう彼女が本当の彼女であって欲しいなと思ってしまった。

彼、彼女らは闘うために生まれたのではなく、ただ生まれた生活者であったはずなのだから。

 

 

 

最後に

最後の章では、様々な水俣病患者の報われ方についてが語られる。「52年判断基準」を撤回させるまでは闘うと息巻く人もいれば、勝訴と認可をもって満足する者もいる。タイトルにもある『悶え神』も一つの落としどころであり、相手を想い悶えるだけに留め、憎しみを捨てようという人もいる。

これまで積み上げてきたこと、ただそれでも届かない現実に対しての悟りの境地。三部構成、6時間をかけてたどり着いたのが、このやりきれなさとは。

これが『水俣曼荼羅』なのか。

決して苦しいだけの映画ではないのだ。劇場でも笑いは起こったし、出てくる人たちが本当に魅力的で一切飽きはしなかった。だが、どうしてもこの先に彼らが真の意味で平穏を取り戻せるとは思えないのだ。

この映画が本当に撮ろうとしたのはその平穏で、だが真の意味で叶うことなく、この映画は"完成"してしまった。映画が完成し、公開される、そのことでこの映画は彼らに平穏が訪れないことを暗に証明してしまったのではないだろうか。完成して、公開されてしまうことがこんなにも悲劇的なニュアンスを帯びることもないだろう。(製作ノートによると金銭問題など様々なことが撮影終了の原因として挙げられている)

 

長さに関係なく、これまでの人生の中でも稀有な映画体験であった。