劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『チェチェンへようこそ -ゲイの粛清-』ゲイの存在しない国など存在しない 劇場映画批評第50回

題名:『チェチェンへようこそ -ゲイの粛清-』
製作国:アメリカ

監督:デヴィッド・フランス監督
公開年:2022年

製作年:2020年

 

目次

 

あらすじ

この”ゲイ狩り”を世界は止められるか―。
国による『血の浄化政策』が始まった…。逃げるしか、道はない。

ロシア支配下のチェチェン共和国で横行している、国家主導の”ゲイ狩り”によって警察や自身の家族から拷問を受け、社会から抹消されている同性愛者。
彼らの決死の国外脱出の様子や、救出に奔走する活動家たちを追ったドキュメンタリー。
ディープフェイクの使用法を更に進化させた「フェイスダブル」で取材対象者の顔を変えることで、報復を恐れず語ることができるようになった彼らの苦境を直接伝える作品。

引用元:

kbc-cinema.com

 

今回紹介するのはデヴィッド・フランス監督の『チェチェンへようこそ -ゲイの粛清-』です。本作はロシアの統治下にあるチェチェンで実際に行われている同性愛者への虐殺行為を、国外脱出を支援する団体の視点で追ったドキュメンタリーになっており、昨今のウクライナ侵攻と併せて観ることが出来る内容となっている。早速語っていこう。

 

ゲイ狩りは何故行われるのか。

国主導で"ゲイ狩り"と称して、同性愛者が拘束され拷問を受け、そして人知れず殺されれ、それが今も平然と行われている国がある。その国の名はチェチェンだ。

ここで一度チェチェンについて簡単紹介しておこう。正式名称は「チェチェン共和国」でロシアが連邦管区として管理している地域である。統治者のムザン・カディロフは、プーチン大統領が選んだ親露派の統治者であり、ロシアの属国として独裁を強いている。多くの国民がイスラム教徒であり、家名を大切にする風潮が強い国であるそうだ。そんなチェチェンで"ゲイ狩り"が特に激化したのは2017年。それ以降多くの同性愛者がこの国で殺されている。

彼らが"ゲイ狩り"を行う背景には、二つの要因がある見えてくる。一つは「同性愛者を恥とする風潮と一族の保身」である。先ほど述べたように、チェチェンの国民性として家名を大切にする風潮が強い傾向がある。そのため、一族に同性愛者がいることは「恥」であり、「国」以前に「一族」が同性愛者を葬ろうとする。ここがチェチェンでのゲイ狩りが恐ろしい理由で、同性愛者をその両親が殺すのだ。家名の尊厳を優先し、自ら一族の汚名を削ぐという考えが、この状況に拍車をかけているのは間違いない。

またもう一つの理由として「政策としての民族浄化」というのがある。チェチェン政府が"ゲイ狩り"を行うのは、上述したような国民性を利用し、同性愛者を絶滅政策の対象とすることで、国民の団結を生み出し、統治しようとしているからに他ならない。それは正にナチス党が、ユダヤ民族に対して行った絶滅政策と同じ思惑であり、「ファシズム」そのものだ。彼らの背景として、この現実を黙認しているロシアは、かつて独ソ戦を戦い抜き、世界を「ファシズム」から救ったことを誇りとした人々である。であれば何故こんなことが起こるのか、。彼ら(チェチェン、ロシア)は、ゲイ狩りが国単位で行われていることは認めない。作中で、独裁者であるムザン・カディロフに"ゲイ狩り"について直接質問されているシーンがあるが、ここでは一切を否定したうえで、「この国にゲイは存在しない」と言い切っている。だが、現実で「ファシズム」を横行させているのがチェチェン、そしてロシアであることは疑いようのない事実だ。

この映画は2020年の映画であり、撮影された内容はそれ以前のものだ。それは2022年においてロシアのウクライナ侵攻が行われている現状を踏まえると、ある種の"予兆"のようにも感じてしまう。

 

ドキュメンタリーが出来ること

本作は同性愛者のチェチェン国外脱出を支援している「ロシアLGBTQコミュニティー」のオリガ・ハラノバとデヴィットの視点でチェチェンの現状を追う構成となっている。実際に多くの人物を国外に逃亡させる瞬間を多く捉えているわけだが、彼らの顔がデジタル処理によって加工されているのが印象深い。彼らは素性を晒してしまうと、彼やその家族に危険が及ぶ。たとえ国外に出てもその危険があるのだという、非常に深刻な実態がここから伺え、敢えて自らの顔を晒し、国を訴えたマキシム・ラプノフが如何に勇敢だったのかも想像できるはずだ。

彼らが脱出する様に密着した映像に加えて、一般市民によってリンチに遭っている同性愛者の映像も非常に無機質に坦々とこの映画は見せてくる。特に、親族が娘の頭を岩で勝ち割ろうとしている様は、見るに堪えないものとなっていた。

それらの映像を以って本作はドキュメンタリーとしてチェチェンの悲惨な現状を総括し、網羅的に映像化したといえるだろう。ただ、本作は、現状を羅列したに過ぎないともいえる。結局マキシム・ラプノフの裁判は、失敗に終わり、現状は変わっていないと、示しただけ。これは本作への批判などでは決してないが、ドキュメンタリーが出来ることは「知らしめること」だが、結局それだけでは何も変えられはしないのではないかと無力感が募ってしまう。『水俣曼荼羅』でも同じことを私は感じた。

ドキュメンタリーが出来ること、ひいては映画がチェチェンに生きる同性愛者に出来ることとは何なのか。結局自分はここで、筆を執り、「知った」に収まってしまうのか。

この映画が示す現実の残酷さと、映画に「知らしめる」以上の効力がないこと、そして「ファシズム」が復権する2022年の現状に途方もない無力さを痛感してしまうのだ。