劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『グリーン・ナイト』自然へと還る、死へと向かう 劇場映画批評94回

題名:『グリーン・ナイト』
製作国:アメリカ

監督:デヴィッド・ロウリー監督

脚本:デヴィッド・ロウリー

音楽:ダニエル・ハートマン

撮影:アンドリュー・D・パレルモ

美術:ジェイド・ヒーリー
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

アーサー王の甥であるサー・ガウェインは、正式な騎士になれぬまま怠惰な毎日を送っていた。クリスマスの日、円卓の騎士が集う王の宴に異様な風貌をした緑の騎士が現れ、恐ろしい首切りゲームを持ちかける。挑発に乗ったガウェインは緑の騎士の首を斬り落とすが、騎士は転がった首を自身の手で拾い上げ、ガウェインに1年後の再会を言い渡して去っていく。ガウェインはその約束を果たすべく、未知なる世界へと旅に出る。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

死を覚悟する内面的な旅

円卓の騎士の一人、ガウェインを主人公とした「緑の騎士」の伝説を映画化。原作については全く情報なしで、デウィット・ロウリーの新作ということで期待MAXで鑑賞。
結論からいうと、最高の映画体験であった。


正直全てを理解したとは言い切れなく歯痒いところが多くある作品であることは認める。しかしそれを差し引いても、人類と神秘が分け隔てられる以前の中世世界において、ある騎士が孤立して自然へと埋没していき、あらゆるものを削ぎ落としていく姿は、心に訴えかけてくるものがある。単に名誉にこだわる一人の騎士が旅の果てに、死んで伝説になるという話ではなく、自然や神秘と対峙し、己の中で葛藤して矮小さに向き合うことで悟り、死を覚悟する内面的な旅だったことが、ある見習い騎士の通過儀礼の物語とは云わせない奥深さを感じさせたのだと思う。

 

「死」から解き放たれる方法

詳しく話していこう。
緑の騎士は自然の摂理の代行者である。だからこそあの"ゲーム"は彼の元で打首されて終わることが、まるで死が抗えない自然の摂理であると同様に、当然の帰着として、設定される。彼の元へと向かっていくことは、人理を離れて自然へと没入していくこと、そうすると次第に「死=自然へと還る」という図式が白骨死体のイメージと共に強調されていく。
自分が何より魅力に感じ、心に訴えかけられたのは、そういった自然に没入していく感覚と死に近づいていく感覚が同義となり、そこに加えて自然の圧倒的な映像美に魅せられることが、死に魅せられることが同義になっていくからだ。デウィット・ロウリー監督の前作『ア・ゴースト・ストーリー』でも「死」について描いており「死」が浮世を離れた神秘的な感覚に接続していくのが、極めて興味深い共通項だと言える。前作が「死後」の時間軸上の"旅"だったのに対し、本作は「死前」の移動の伴う旅路を描いてたという点も言及しておきたい。
話を戻す。主人公の物語は、通過儀礼的であるが故に、成長前のナヨナヨだった騎士と成長後に悟った騎士で前後に分かれるが、それは文明と自然に大まかに当てはめられるだろう。その上で考えたいのは、緑の腰紐だろう。原作とは違い、母によって課された試練という意味合いが付与された緑の騎士の元へと向かう旅において、その紐を自ら手放すまでの物語となっている。紐は、未だに母親へと繋がっている"へその緒"のようであり、精液と共に再び渡されたそれは彼の未熟さ故の依存を象徴している。彼の持ち物は、盗賊に奪われたにも関わらず、戻ってくる。そこにも彼の内的な文明への「依存」の言葉が過ぎる。言ってしまえば、囚われている。
だからこそ最後に自らの意思で外すという行為に、通過儀礼的な意味合いが付与されるのだ。

自身の未来を全て悟り、覚悟することで、彼は自然の代弁者たる緑の騎士による死を免れる。
「死」は必ず訪れるものであるが、もし「死」から解き放たれる方法があるとするなら、「死」を遥か以前から受容することなのかもしれない。