劇場からの失踪

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『フラッグ・デイ 父を想う日』ライ麦畑で捕まえてほしい願望ってあるよね 劇場映画批評97回

題名:『フラッグ・デイ 父を想う日』
製作国:アメリカ

監督:ショーン・ペン監督

脚本:ジェズ・バターワース  ジョン=ヘンリー・バターワース

音楽:ジョセフ・ビタレッリ

撮影:ダニー・モダー

美術:クレイグ・サンデルズ
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

1992年、アメリカ最大級の偽札事件の犯人であるジョン・ボーゲルが、裁判を前にして逃亡した。ジョンは巨額の偽札を高度な技術で製造したが、その顛末を聞いた娘ジェニファーが口にしたのは、父への変わらぬ愛情だった……。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは、名優ショーン・ペンが監督として手掛けた『フラッグ・デイ 父を想う日』である。彼の監督作品は基本的に全部好き(※前作だけ見ていない)なので、今回も楽しみにしていた。はっきりいって大傑作だった。映画の技巧をもちろんのこと、テーマが自分のど真ん中にストライク。2022年ベストのNO.1偏愛映画であった。

では早速語っていこう。

 

前置き:ショーン・ペン監督作品について

ショーン・ペンの描く男性像は決まって「強くて脆い男」でその狂気的なナイーヴさが観客を魅了する。そんな男性像を用いてこれまた決まって描かれているのが、「一度生き方が定まってしまったのなら人は変われない」という突き放したテーマである。狂気的にナイーヴな男が、どうにか頑張って変わろうとする、或いは信じてその生き方を突き進もうとし、見事にその果てのバッドエンドに突き当たる。

自業自得だと言ってしまえば、そこまでなのだろう。だが自分は「不器用にしか生きられない、それしか生き方を知らないのだから」という切実な人生観に哀れみながらも憧れてしまう。

"ライ麦畑で捕まえて"欲しいという心理が働いてしまう。

 

嘘つき

本題に入る。

本作は6月14日、アメリカを象徴する星条旗を制定した記念日である「星条旗制定記念日」に生まれた男ジョンとその娘ジェニファーの親子の数十年をジェニファーの成長と共に追った作品だ。

ジョンは端的に言ってしまうと「嘘つき」だ。

それも自分すらも騙してしまう、嘘をついている自覚のないような嘘つきである。彼の嘘は虚栄心に由来していて、「自分は特別」だという自負と現実のギャップを埋める為に自己防衛的に嘘をつく。

そんな彼を見事に表すエピソードとしてタイトルでもある"フラッグデイ"が登場する。

星条旗制定記念日を祝う人々の様子を見て、ジョンは国中の人々が自分の誕生日を祝ってるかのように錯覚して、自らの心を満たす。彼の自尊心や虚栄心が、如何に彼の独りよがりな認知によって成り立っているかが表されているし、彼の生き様がとそのまま1970年代以降の理想が崩壊していく中で膨れ上がる「アメリカ」という1つの大きな虚栄の体現であるかのようだった。

ただジョンの嘘は幼い娘ジェニファーや弟ニックにとって"御伽噺"であり、彼らの現実逃避にはうってつけの娯楽だった。娯楽という表現は些か不適切かもしれない。それほどに今にも空中分解しそうな幼少期にとってジョンの嘘は必要不可欠な「虚構」だったのだ。

 

ショーン・ペン監督の自然

本作は「虚構」をフィルムの粗い粒子の映像感で美しくダイジェスト映像にする。アメリカの雄大な自然、華やかなパレードや生活の営みを、ジェニファーは母親に内緒のジョンとの電話口で想像したりする。特にショーン・ペン監督は『インディアン・ランナー』や『イントゥ・ザ・ワイルド』でも似たようにアメリカの雄大な自然を荘厳なタッチでフィルムに残したわけだが、彼の作品でそういった自然が頻出するのは、舞台が田舎であることが多いことや旅に出る物語であるからだけではない。我々人間は到底御しきれない、大いなる自然の中で我々が生きているということを印象づけることで、矮小さや無力感を痛感させるためだと私は思っている。

『イントゥ・ザ・ワイルド』はまさにそれが主題なわけだが、『インディアン・ライダー』や『プレッジ』といった主題に関わらない作品においても「ただそこにあり我々にはどうしようもないもの」として自然を配置する。彼の撮る自然は、人に温かみを与える訳でも無く、消費されるものでもなく、ただそこにあり、我々に無関心だ。

 

「虚構」を成立させるための自然

そういったフィルモグラフィを持つショーン・ペンは本作において「自然」をどう撮るか/どう観客とジェニファーの目に写るかによって、ジェニファーとジョンを繋いでいた「虚構」の消滅を描いていた。更に「自然」は効果的に映画の中に描かれていた。

結論から言えば本作の自然はその映像感の変化やジェニファーの成長によって、「美しい虚構」を成立させていたものから、「今ある現実」を象徴するものにシフトしていくことで、映像的にジェニファーの成長と内的世界が変化する様を表現していた。

 

先程も述べたように8mフィルム映像によって「虚構」は映像化される。それはジェニファーの思い浮かべた風景であり、彼女の現実逃避の風景。特にそのイメージが具体化されるのは、彼女が湖で息を止めて潜ったとき。大人になってもフラッシュバックする原体験であるその瞬間は、彼女に何より美しい虚構に酔いしれさせる。我々もまた美しい8mフィルムの映像によってその美しさを共有され、その夢見心地に共感する。しかし目を開ければそこは水の中だ。浮上しなければ溺死してしまうという現実は彼女をそこには留めてくれはしない。浮上した矢先、目の前は現実で、複数の男に問い詰められ、殴られて出血する父の姿は何よりもそれを象徴している。虚構に留まれば溺れ死ぬが、現実もまた悲惨であるという彼女の行き場のなさが見事に表現される。

そのようにして"湖"であったり"麦畑"であったり、そういった自然は劇中にも登場する8mフィルムの映像によって現実から剥離した感覚を生み出し、幼少期の彼女の「虚構」を成立させる。

 

虚構の崩壊、いまある現実の自然

だが必然の流れとして、ジェニファーの成長とジョンの"不成長振り"によって、ジョンとジェニファーの関係は崩れていく。ジョンの嘘が通用したのは、ジェニファーが幼かったからだと説明するかのように、ジョンの醜態が成長したジェニファーに次々晒されていく。ファミレスでの彼の「企業がうんぬん」の話もそうだが、飛び入りで転職して管理職についたという話の馬鹿馬鹿しい嘘など、序盤では「美しい虚構」という側面を持っていたはずの"嘘"が陳腐な虚栄になっていく。ジョンのいずれバレる嘘に晒され、ジェニファーは傷つく。だがジョンは無自覚のままで、そこに摩擦が生まれ始める。その摩擦はジェニファーは成長し、現実を受け入れる中で、ジョンは一向に成長しないという相反する2人だからこそ生まれており、父と娘の決別のきっかけとなっていく。

 

父との決別は同時に「虚構の終焉」であり、それは「自然」の撮り方や接し方に表れる。公式としては「父の決別」=「虚構との決別」=「自然とジェニファーの関係が現実的なものになる」という感じ。

序盤の8mフィルムの映像感は抑えられ、後半ではより現実に即した映像感の自然が撮られていく。またその自然もジェニファーの周りや想像の風景ではなく、彼女が旅した先で実際に観たリアルな風景になっていく。

旅の中での彼女の過酷な体験が「虚構」を成立させた自然を、「現実」的な実在する自然に変化させていく。その極めつけは「水質汚染」の話だろう。彼女にとって「虚構」の原体験の1つだった湖が、ジャーナリストになった彼女にとって「現実」である環境問題の話題の1つになっている。

彼女の成長と共に父親の醜態を認知し、虚構が失われていく。そして同時に自然を映す映像もまたシンクロするように「虚構」→「現実」に変化していく。

このようにしてジェニファーの父との決別の物語を、「自然」の撮り方/接し方によって映像的にも的確に描いているのだ。

 

嘘でしか生きられない悲哀

ここまでジェニファー視点を中心に語っていたが、ジョンの悲哀に満ちた人生の描き方も尋常じゃないぐらい素晴らしい。ジョン自体は実は、ステレオタイプな家父長制男という訳でもなく、子供には手を出さないし、威張ったりもしない。これまでのショーン・ペン監督の作品の男性像と比べても実は非暴力的で、どちらかというと臆病に描かれていて新鮮だ。娘の視点で描かれる父親像だからなのだろうか?

『クロッシングガード』のジャック・ニコルソンに近いの感触もある。

また彼の中ではもはや「嘘」をついてる自覚がないのだろうという狂気も上手く演出されている。湖でジャガーについて電話するシーンは本作の最も強烈なワンシーンだろう。その以前の何度も電話掛けてるシーンが序盤のジェニファーとの電話シーンと対比されることで、彼の「嘘」にもはや何の力もないのだと嫌でも分からせられる。

どこをとっても彼の人生は悲哀に満ちたものとして描かれる訳だが、中でも序盤の車のシーンが最後の彼の結末にも掛かってくるのが良い。

彼の「車が運転できるようになれば世界は広がる」という言葉。ある意味でその言葉は娘の旅によって有言実行されるのだが、一方で虚構は終わってしまう。また彼は運転の先で自殺という結末にたどり着くわけだが、ついに現実との摩擦で摩耗して死んでしまったような感覚に私は襲われた。特に自殺という自己完結した手段をとったのが皮肉だ。

 

 

ショーン・ペン監督の男はいつも最後はあんな感じだが、本作はジェニファーの視点である為にその後が描かれる。映画冒頭の看板のところ。そこには看板は健在ながらもジェニファーの心象によって思い出の「虚構」は見る影もない。首にかけていた絵を捨てるという儀式によって、彼女は完全に折り合いをつける。まるで父の存在そのものが「虚構」であったかのような、成長と共に消えたかつての「父」。

物悲しいラストに圧倒された。今年ベスト。