劇場で観た作品を"ネタバレ少なめ、短め"に妄想爆発させて批評する劇場批評回「劇場から失踪」第9回『テリーギリアムのドン・キホーテ』
※今回も短くないし,ネタバレ多少あります。
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どうもArchです。
今回紹介するのは「テリーギリアムのドン・キホーテ」です。
今作は公開前にして多くの不幸伝説を残した映画の魔法ならぬ,"映画の呪い"を体現したような史上最悪の企画であり,公開に漕ぎつけただけで拍手の異質な作品です。
この企画は30年前に始まり,洪水や主演俳優の病気による降板,数えること9回の企画の頓挫を経験し、テリーギリアム監督も「この仕事をするのに人生の多くを無駄にしすぎた」というほど。
詳しくはこちらの「ドン・キホーテ」という企画がどういった経緯で頓挫したのかを描くドキュメンタリー「ロスト・イン・ラ・マンチャ」で観ることが出来ます。
そんな公開前から"伝説"となっている本作ですが、ここから先「ロスト・イン・ラ・マンチャ」を多く引用ことになります。何故なら,数々の不幸を経たからこそ実現した"テリーギリアムの自伝"的側面,いわゆるメタフィクションであることを押さえた方がより楽しめる作品であるからです。
Amazon prime videoで観れますので是非まだ未見の方はどうぞ!
では 是非今回も最後までお付き合いください。
CAST
街の寂れた靴職人だったが,映画「ドン・キホーテを殺した男」の出演がきっかけで自分を"ドン・キホーテ"だと10年間思い込んでた男ハビエルが主人公です。
演じるはジョナサン・プライス。
テリーギリアムと組むのはこれで4度目であり,「未来世紀ブラジル」がやはり印象的か。未来世紀ブラジルから35年の月日。これだけ年老いたからこそのドン・キホーテ役でしょう。
そんなドン・キホーテの"業者"サンチョと勘違いされ,一緒に旅するCM監督トビー。かつて情熱をもって学生映画を作っており,その作品が「ドン・キホーテを殺した男」でハビエルをドン・キホーテにした張本人です。
演じるはアダムドライバー。
近年,大活躍の一押し俳優。
「スターウォーズEP7.8.9」やスコセッシの「沈黙」,ノア・バームバックの「マリッジストーリー」等でその自然なリアクションと存在感ある演技力を見せています。
マリッジストーリーでの彼の演技は本当に素晴らしかった。
マリッジストーリーの批評はこちらに↓
そして最後に,異様なまでの存在感のある監督を大手を振って紹介したい。
デルトロやジュネ等の現実と虚構を交錯させることに長ける監督たちの元祖。
彼こそがひとつの映画ジャンルと言える。
世界に新たなヴィジョンを与え続ける男、テリー・ギリアム監督です。
今作は彼の悲願であり,ライフワークでした。過去多くの彼独自の世界観を生み出し続けてきた,いわゆる作家性の尖った監督です。
代表作は「未来世紀ブラジル」「12モンキーズ」「Dr.パルナサスの鏡」など。
一言でその作家性で表すならば「虚構と現実の衝突」です。彼の作品では必ずと言っていい程,虚構の世界が描かれます。その虚構は”冴えない男の妄想”であったり,"老人の夢""少女の現実逃避"であったりと形を変えます。
そんな虚構が現実に浸食してくる感覚。悪寒と高揚感の入り交じったソレが全ての作品に共通して存在します。そしてその衝突の末、主人公の現実は虚構によって支配される。「現実を凌駕する虚構」それこそが彼の描いてきた物語です。
そして押さえときたい事のもう一つは虚構を抱き,現実に抗うそのキャラクター達の姿は正に”テリーギリアム”そのものであるということ。
彼の作品の魅力ある主人公たちはギリアムの持つ”ユーモア”や"虚構を愛する姿勢"を持ち合わせています。そして今作のドン・キホーテは過去どの主人公よりもテリーギリアムに近い。
ドン・キホーテの夢に取り憑かれ,風車に無謀にも突進していくその姿は,テリーギリアムが今作の製作で,諦めずに"残酷で無情な現実"に挑み続けた姿と重なります。
そして夢や虚構に対する姿勢にこそユーモアがあり,エンターテインメントがあるという人生観がドンキホーテという題材の本質とマッチしているのです。
ではこの問題作はいかなる魅力を持つのか。その舞台裏にも少し触れつつ,批評していきたいと思います。
ドン・キホーテを現代に呼び起こす
そもそも,ドンキホーテという題材がテリーギリアムのこれまで描いてきた作品のテーマと親和性が高い。
先程も書いたようにこれまで彼が映画で撮ってきたのは「虚構と現実の衝突」。
特に現実が虚構に侵食されるという事象を扱ってきたのです。例えば、1981年製作の「バンデッドQ」では少年の日常に神に仕えていた小人達が宝の地図を持って現れ、少年を未知の世界に誘っていきます。
1989年製作の「バロン」だともっと顕著です。バロンのホラ話にしか思えない武勇伝がいつの間にか、現実を塗り替えるのです。
そんな彼の作家性がドン・キホーテの持つ"現実に虚構を持ち込もうとする物語"とマッチしているのです。
まさに彼が語るべき映画であり,彼のライフワークとして納得の作品なのです。
しかし、肝心なのは今作は時代劇ではなく、現代劇であるということ。
現代劇にブラッシュアップするのは大変難しい。ドン・キホーテは悪く言ってしまえば、カビの生えた古臭い物語だからです。
それをどう改変してドン・キホーテを現代へ呼び起こしたのか。
そこにまず今作の一つの面白さがあると思います。
遠回しではありますが、まずドン・キホーテとは如何なる人物,物語であるか,そこから始めましょう。
ドン・キホーテと言えば,風車を巨人と勘違いし突進する男を想像するはずです。そこに結び付くのは「蛮勇」という言葉。そして哀れな妄想に憑りつかれた老人像が浮かぶことでしょう。
その”虚構に憑りつかれた男”というイメージは本作でも大きく表現されています。
"虚構に憑りつかれた男"という面について。
原作のドン・キホーテは騎士道物語を読みふけり,騎士だと思い込んだ男です。
正しく「騎士道物語」という虚構と「ドン・キホーテ」という虚構に憑りつかれる男の構図です。
では本作のドン・キホーテであるハビエルはどうでしょうか。
本作のドン・キホーテは"ドン・キホーテ"ではありません。自分をドン・キホーテだと勘違いした元靴職人です。これが本作の面白いところで,現代劇に落とし込むうえで必要な要素です。
今作のドンキホーテには「ドン・キホーテ物語」という虚構と「ハビエル」という憑りつかれた男という構図が成り立っています。
つまりは「虚構に憑りつかれた男(ドン・キホーテ)の虚構に憑りつかれる男」。
ここに"虚構の二重構造"があり,ドン・キホーテの"虚構に取り憑かれる男"の面を強めて、中世の物語を現代に設定を引き継ぎながらシフトさせることを可能にしたのです。
ここが今作の面白さの一つだと思います。
ドン・キホーテを現代に呼び起こすのにこれ以上の設定はないでしょう。
メタフィクションにより深まる交錯感
今作は現実と虚構を曖昧かつ唐突に行き来します。これがテリーギリアム脚本の真骨頂というか本作の魅力の源であると思います。
いきなり脱線しますが,これが「なんだかよく分からない」と,観客に置いてきぼり感を与えているのは否めません。ここがティム・バートン等と違う点で、観客に優しくないのです。
この容易に掴みどころをみせない感じはいつものことで,これは監督と観客の考え方の相違です。
テリーギリアムは一貫して作品の持つメッセージを観客の想像力に任せる節があります。それに対して,観客はある一定の答えを示して欲しがる,というかそれに慣れてしまっているのです。これはもう好みの次元なので,なんとも言えないことです。
(それでも「未来世紀ブラジル」に比べれば,大分寄り添っているとは思うんですがね)
さて,話を戻しますがこの作品の特徴である"現実と虚構を行き来"をどのような仕掛けをもって行っているのか。つまりは虚実の交錯感をどう生み出しているのかを考えたいと思います。
一つは簡単で、ビジュアル面での説得力です。衣装や建物などの背景が中世を想起させ,虚構の中だと錯覚させて,いきなり銃が出たり,黒スーツの男が現れる。そういった視覚効果によって我々はその虚実の交錯を体感させられています。特にボスの妻ジャッキが馬に乗って出てきたシーンのどちらの世界に居るのか分からない感覚は凄まじかったですよね。
しかし,それよりも重要なのはそのメタフィクション的視点です。そのメタ的視点はトビーから見た"ドン・キホーテという人物"と観客から見た"ドン・キホーテという物語"という二つの視点が存在していると思います。
今作の主軸としてまず,ドン・キホーテという物語をトビーという彼のメタ的視点で追っています。ここでいうメタ視点とはドン・キホーテをなぞる物語の進行を外から見るという意味でのメタ視点です。
トビーは今作での現実側に立つキャラとして機能しており,対してハビエルは虚構の象徴として作品の中心に君臨しています。
ここにテリーギリアムの「虚構と現実の衝突」の構図が表れています。そしてどんどんとそのメタ的視点が虚構に近づいていき,最後には虚構に取り込まれる。正に「現実を凌駕する虚構」が表れており,お見事な脚本だと言えます。
もうひとつの忘れてはいけないメタフィクション的視点。観客から見た"ドン・キホーテ"という視点ですが,正確に言うなら「難航した地獄の製作期間を経ての作品」であるという点を承知の状態で描かれているのだということです。
第一にジャン・ロシュフォールやジョニー・デップで採用した初期に計画されていた脚本では時空を超えてドン・キホーテの世界に迷い込む物語であったそうです。
そこから最終的な"ドン・キホーテだと勘違いした男"を主役とした脚本に至る経緯に「ロストインラマンチャ」で見られた製作の挫折の影響があったのは明白です。
どんな影響があったのか。例えば,冒頭のトビーが風車を前に,不機嫌な顔をして監督椅子に座っている。これはテリーギリアムが製作時にエキストラに文句を垂れている姿に重なります。
他に,ヘリコプターの騒音は軍用戦闘機の騒音を思い出させ,宮殿に振る雨は機材を流した洪水を連想させてきます。
ジプシーはその髪のメッシュなんかがジョニーデップ版トビーから来たものだと「ロストインラマンチャ」を勘づけると思います。
そして,そもそもドン・キホーテを演じるはずであったジャン・ロシュフォールのドン・キホーテへの入れ込み具合こそ,ハビエルというキャラの源でしょう。
このようにテリーギリアムの挫折の30年の経験が色濃く反映されており,メタフィクション的な視点で見ると、なんだか登場人物にテリーギリアムが重なってくるのです。
つまりテリーギリアム監督が現実という名の"風車"に突っ込んでいく"ドンキホーテ"であるということです。
そうしたメタフィクション的視点があることで,作品内の虚実の交錯だけではなく,我々の現実と映画という虚構の交錯が行われ,本作の「現実を虚構が凌駕する」というテーマをより際立たせていることに成功しているのです。
夢追う者姿への賛歌
物語の終盤,トビーはハビエルと同じ時間を過ごすことで,かつて夢を追っていたころの情熱を取り戻し,彼こそがドン・キホーテとなります。それはこれまでもテリーギリアムが描いてきた「現実を凌駕する虚構」の結果です。
個人的に興味深いのは彼を映画監督の夢を追う者にして終わらせなかったことです。
彼はドン・キホーテという盲信者になって終わります。これは捉え方によっては悲劇で喜劇とも捉えられる終わり方。この観客に最後を委ね,想像力を刺激する姿勢はやはりテリーギリアム監督らしさだといえます。
しかし,これだけは勘違いしてはいけないのが,この物語の終わりは"夢追い人を笑うな"という話ではないと思います。それはコメディアンとして人を笑わせてきたテリーギリアムの人生観とは大きくずれているからです。
今作の最後が意味するのは"夢追う姿は見る者を笑顔にする"ということであると思います。
それが悲劇であれ喜劇であれ,夢を追うということは尊く,美しく,なによりも面白いのです。そしてそれは一つのエンターテインメントであり,人にイマジネーションを与えるものだということなのです。
それに対して,その夢追う現代のドンキホーテ達には「自分の世界は夢のために変えることが出来る 他の誰かにとってそれがおかしく異常でも、気にする事じゃない」
そんなメッセージを送っているのです。
多くの人を笑わせてきたモンティパイソンのメンバーであるテリーギリアムの歩んできた人生であるからこそ生まれたメッセージだと私は思います。
最後に
"映画の魔法"は現実との闘いです。30年間闘い続け,生まれた今作が公開されたという事実,それこそが映画という我々が愛する虚構が現実を凌駕出来ることの絶対証明となっていると思います。
なんてロマンティックな物語なのでしょうか。これは虚構への愛の物語なのです。
「バンデットQ」のインタビュー映像でテリーギリアム監督は観客の想像力に働きかける事を意識していると述べていました。
なのでこの記事で考察したこと等は正解はないのだとは私は思います。如何ようにも捉えられる映画を作り,観客の想像力をもって完結する。
そんな映画なのです。
だから今記事をもって私の「テリーギリアムのドンキホーテ」は完結しました。
是非,読んでいるあなたもその脳内の”虚構”を”駆使し,物語に完結させてはいかがでしょうか。