劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

-ジャームッシュ最新作は何故失敗したのか-『デッド・ドント・ダイ』劇場映画時評第14回

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どこにでもあるようなアメリカの田舎町「センターヴィル」。

そこで働くどこにでもいるような警察官ロバートソン署長とピーターソン巡査とモリソン巡査

ラジオやテレビからはエネルギー会社の工事のせいで、地球の自転軸がずれたのなんだのと騒ぎ立てているが、この街の日常は変わらない。

だがそういえば最近、陽が落ちるのが遅い気がする。動物の失踪事件も多発している。不吉な予感が警察官3人に過ぎる。

次の日、この街唯一のダイナーで悲劇が起きる。二人の客が無残に食いちぎられて殺されているのだ。度肝を抜かれて言葉を失う中、ピーターソン巡査がある結末を導き出した。

「ゾンビの仕業でしょう。」

突拍子のない、言葉が現実に。緩やかに進むジャームッシュ特有のオフビートのギャグが笑いを誘うコメディー×ゾンビ映画

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題名:『デット・ドント・ダイ』
原題:『The Dead Don't Die 』
制作国:アメリカ
監督:ジム・ジャームッシュ監督
製作年:2020年

 

目次

 

どうもArchです。今回時評を行うのは『デッド・ドント・ダイ』。ジムジャームッシュ監督最新作のゾンビムービー。

「ジム・ジャームッシュがゾンビ!?」と、期待と不安で世間はざわついたが、意外にもジム・ジャームッシュ監督はこれまでジャンル映画を手掛けている。

例えばジョニー・デップ主演で死生観をテーマにした西部劇『デッドマン』。また本作と同じホラージャンルの"化け物"である"吸血鬼"の日常を描いた『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』などがある。

どの作品も見事にジャームッシュの色に染め上げられていて、見事な成功した作品であるといえます。

 

…しかし本作は失敗作です。"ジャームッシュ監督の優れている点が全て外れてしまっている"というのが率直な印象でした。ジャームッシュ監督の最新作だ!と、楽しみにして監督作を全部鑑賞した結果がこれかと大変残念な思いです。

今回は初めての酷評回。本作が大好きな方は気分を害されるかもしれないのでおススメしません。※ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

ジム・ジャームッシュ監督とは

まずジム・ジャームッシュ監督について説明せねばならないと思います。主に説明したいのは彼の描いてきた作品に共通する要素、いわゆる"作家性"です。

初監督作品である『パーマネント・バケーション』から始まり、最近の『パターソン』まで十二作品(※ドキュメントを除く)に通ずるのは「無意義なものを魅力的に描く」という点です。

 

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彼の作品には多くの無意義な要素がみられます。例えば旅の目的地までの道中、待ち合わせまでの待ち時間、コーヒーブレイクや若者の夜の散歩。そういった目的や結果までの"道中"をすごく魅力的に描いてるのです。それ故に彼が常にキャラの歩く姿や車での移動を省略せずに描いているのも作品の特徴といえます。

この"道中"を描くことは日常の価値の再発見にも繋がります。

彼の作品『ミステリートレイン』で永瀬正敏演じる"ジュン"がこの作家性を象徴するようなセリフをいいます。

「観光地だったり風景は記憶に残るけど、泊まった部屋は忘れちゃうだろ。だから部屋の写真を撮るんだ。」

 

部屋の写真を執拗に撮るジュンに対して疑問を持ったミツコに対する台詞。

はっきり覚えていないのでニュアンスだけ受け取ってくれればありがたいのですが、つまりは忘れてしまうような他愛のない出来事を大事にしたいというのが、このセリフの意味でありジム・ジャームッシュ監督の作家性を如実に表した台詞であると思います。

 

彼のそういった日常の切り取り方は非常に停滞した物語を生み出し、劇中の自分に"憧れ"を感じさせます。煙草やコーヒーが上手そうで吸ったり飲んだりしたくなり、旅先で敢えて歩きたくなる。それがジム・ジャームッシュ監督の素晴らしさであり、彼の最大の持ち味である"余韻"を作り出しているわけです。

ですが、「デット・ドント・ダイ」には全く以ってそういった要素が全て裏目に出ている。一歩間違えれば退屈になってしまう物語を絶妙なバランスで面白くしてしまうジム・ジャームッシュが今回は完全にバランスを崩してしまっているのです。

それを次で説明していきます。

 

 

新しいことへの挑戦が失敗の原因?

本作における酷い点は各所に散りばめられていて、どうまとめていけばいいか正直悩んでいる。悩んだ挙句、主に三つに分けられることが出来ると結論が出た。そしてそれらを突き詰めていくと、一つの姿が見えてきた。

それは「新しく慣れないことに挑戦して失敗したジムジャームッシュ監督」だ。

つまらない映画について長く書く気にもならないので出来るだけ省略して書きたい。

まずは以下の三つ

・冗長で下手くそな物語進行

・メタフィクション=面白いわけではない。

・説教くさいラスト、俗物ゾンビの意味

これを一つずつ説明していきたい。

冗長で下手糞な物語進行

ゾンビ映画において、ゾンビ出現までの不気味な時間は色々な予兆を散りばめ、不吉な展開を予感させるもの。ジェットコースターの昇っている最中のような時間この物語の雰囲気づくりはゾンビ映画においてかなり大切な要素です。

本作においてはこの序盤のシーンがあまりに長い。

警察官二人が町の異変を察知する→これから惨劇が起こるであろう町の各所を周って、徐々に緊張感は高まる→そしてついにゾンビがダイナーに現れる→イギーポップ&サラ・ドライバー演じる"コーヒーゾンビ"が人を見事に食らいつくす。

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正直な話、この映画で一番盛り上がるシーンだ。

このままゾンビパニックの始まりだ!と期待するが、一度落ち着いてしまう。何故ならセレーナ・ゴメス演じる若者集団が町に訪れるからだ。

先程まで丁寧に描いていた"予感"をもう一度やり直す。つまり二回ジェットコースターを昇るわけだ。確かにジェットコースターもそういった本命の前に小さな山を用意したりする。しかし、それはジェットコースターという数分の出来事ならば成功すること。

二時間近い映画においてそれは失敗していて、ただただ冗長な時間になっている。

 

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他にも冗長にさせる要素がある。それは多くの登場人物をさばき切れていない点だ。

更生施設の子供達、町に住むブシュミを代表するモブ、ガソリンスタンドのオタク、町に訪れる若者達、警察官、葬儀屋のスウィントン、そして森のボブ。

ジム・ジャームッシュ監督はこれまで、こういった色々な視点を同時進行したことはない。多くの視点を描くとき、彼は必ずオムニバス形式で描いてきたのだ。だから本作は彼の新しい試みだといえるかもしれない。しかし…上手くいっていないと言わざるを得ない。振り出しに戻して登場シーンから描いたセレーナ・ゴメスたちは適当に殺されるし、ブシュミも特に記憶に残るような殺され方もしない。ガソリンスタンドのオタクも「映画好きは知っている映画の話が出たら嬉しいだろ?」?と言わんばかりの接待をして退場。被害者全てを丁寧に描こうとした挙句慣れていない群像劇にしてしまったのだ。

つまりはこの冗長で退屈な作品になった最大の理由は新しいことに挑戦したからなのではないだろうか。そうなってくると責められないが、失敗している事実が変わらない。

 

メタフィクション=面白いわけではない

近年の作品になればなるほど強まってくるメタ的な視点。それはいわゆる第四の壁を貫通してくる視点で、観客のいる世界を強く意識させるもの。個人的に一番に頭を過ぎるのは『デッドプール』。ファンサービス的な使い方で思わずニヤッとしてしまう展開を簡単に作れてしまうわけです。

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本作にもピーターソン巡査(アダム・ドライバー)という非常に"メタい"キャラが登場します。隙あらば意味深な台詞を吐くキャラで、社内のラジオで「Dead Don't Die」が流れると「この曲なんだっけ?」と聞くロバートソンに対して「この曲はテーマ曲ですよ」なんて意味不明な台詞を言っちゃうわけです。

正直これ、全然作中の要素として浮いているのです。適当に足された要素でしかなく、最後のシーンにまで引っ張ることで重要な設定のようではあるが、正直物語において不快なものでしかないです。

 

この要素を入れた理由はメタ的視点=面白いの構図が出来ているからではないでしょうか。『デッドプール』等に始まり、モンティパイソンの数多のコメディー作品であったりなどがそう錯覚させるわけです。

しかし、これらはただメタいことを言っているから面白いのではなく、的確に観客や現代社会のツボを押さえているからこそのなせる業なわけです。

ジム・ジャームッシュ監督はこのメタ的な笑いをキャスティングという形で行ってきたはずです。特に顕著なのが『コーヒー&シガレッツ』でしょう。まさかのキャスティングで繰り広げられる怠惰な会話劇、あれは最高でした。

しかし、今回はメタ的な発言をとても露骨に使っているせいで、"下品"でした。

新たな目論見、また失敗。

 

 

説教臭いラスト、ゾンビの扱い

この章は一つ前の「メタフィクション」の延長線上にあります。しかし、ここで分けたのはこの「説教臭いラスト」こそが一番に失敗作にした原因だと思うからです。

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トム・ウェイツ演じるボブという視点が本作には存在します。森という社会から隔絶された環境に身を置き、本作の一部始終を双眼鏡で見る存在。物語を俯瞰で追う存在として実はもう一つのメタ視点でもあります。ですが、本作において彼は居なくても物語は進行するエピソードであって、彼の存在意義はラストのワンシーンのみだといえるでしょう。そのワンシーンは完全に物語のエピローグであり、警察官二人がゾンビに襲われている中に挿入されています。

内容は要約すると「現代人のスマホなどに囚われている姿はまるでゾンビだぞ」というものです。正直このシーン、「これで終わるのか…」という絶望感でまともに見ていなかったというこちらの過失があるかもしれません。

 

しかし説教で終わる映画、ろくでもなくありませんか?説教の内容以前に品がないのです。考え方によれば「まさか説教をここで挟む!?」というオフビートなギャグだといえるかもしれません。しかし劇場には一切の笑いはなく、そうであるなら自らのテリトリーで駄々滑りしたことになるのでそうではないでしょう。

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駄々滑りと言えば、本作のゾンビたちについても触れなければなりません。彼らは生前に執着していたものを死後も執着しているというロメロ的なゾンビたちです。

このゾンビたちは"現代を生きる人々は何かに執着して囚われている亡者である"というメタファーです。因みにですが、ジム・ジャームッシュ監督が現代人をゾンビだと定義したのは今に始まったことではなく、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』でも人間をゾンビと呼ぶヴァンパイアを登場させていました。

つまりこの頃からゾンビたちを通して、スマホやWifiに囚われた現代人を風刺しているわけです。

インタビューによれば、「本作には悲観的なメッセージはないのだと、厚生施設の三人がゾンビになるところを描いていないことが若者達への希望を象徴しているのだと」語っています。

なるほど。しかし本作の演出がそう受け取るのには拒絶しています。例えば、スマホ世代真っ只中であるだろうセレーナ・ゴメス率いる若者集団は思いっきり殺されているではないか。最後のトム・ウェイツ視点の侮蔑したような説教には非難の印象しか持てません。

ジムジャームッシュ監督は大のアナログ主義で古風な性格なのは、作品を観ていれば分かる。だからこそ、スマホに一日被りついている様はさぞ、不気味に映るのだろう。そういった嫌悪感が見事に作品に出ていた。だが、それも別に作品の質を損ねることの根幹ではない。それよりも腹立つのはこの説教がこれまでの「無意義さを魅力的に描く」という作家性、もっとわかりやすく言うならば「無駄に思える行為を讃える」という行為の真逆であるからだ。

 

俺の知っているジム・ジャームッシュ監督ならば珈琲や煙草を魅力的に描くが如く、スマホに時間を費やす様を魅力的に描くはずだ。(正直いうと暴論だ)

ここで見えたのはジム・ジャームッシュ監督が愛しているのはアナログであるということであり、ただの懐古主義なのではないかという疑念だ。

こちらが勘違いしていただけの話か、なんとも悲しい気分だ。

 

最後に

大分長い文章になったが、結論は「新しいこと、慣れないことをやって失敗した作品」だということだ。ここで勘違いしてほしくないが、私はジム・ジャームッシュ監督が大好きだ。ドキュメンタリーも含めて全て鑑賞し、批評し、愛している。だからこそ本作を受け入れることが出来ない。俺の知っているジャームッシュはあんなに不味そうなコーヒーを描かない。

ここ数年でジム・ジャームッシュ監督は煙草を吸うのをやめたらしいが、それが影響しているのか?ある意味悟りを開いた男の日常で描いた『パターソン』にはその禁欲生活の体験が上手く作用したのかもしれないが、本作にはその不満が悪い影響が出てしまったのかも。

どうか喫煙解禁していただきたい。