題名:『恋人はアンバー』
製作国:アメリカ
監督:デビット・フレイン監督
脚本:デビッド・フレイン
音楽:ヒュー・ドラム スティーブン・レニックス
撮影:ルーリー・オブライエン
美術:エマ・ローニー
公開年:2022年
製作年2020:年
目次
あらすじ
アイルランドで同性愛が違法でなくなってから2年後の1995年。同性愛者に対する差別や偏見が根強く残る田舎町で暮らす高校生エディは、自身がゲイであることを受け入れられずにいた。一方、エディのクラスメイトであるアンバーはレズビアンであることを隠して暮らしている。2人は卒業までの期間を平穏無事に過ごすため、周囲にセクシュアリティを悟られないようカップルを装うことに。性格も趣味も正反対の2人だったが、時にぶつかり合いながらも悩みや夢を語り合ううちに、互いにかけがえのない存在となっていく。
引用元:
※以降ネタバレあり
今回紹介するのは『恋人はアンバー』である。個人的に非常に注目しているデビット・アンバー監督の最新作がようやく日本公開され、嬉しい気持ちでいっぱいである。さて、同性愛の男女が偽装カップルになるという前作『CURED』とは違った趣の作品であるが、デビット・フレインの確かな腕を感じさせる作品であった。
では語っていこう。
石がぶつかる衝撃
自転車を漕いでひたすら道を進む。耳にはヘッドホン、人の声は聞こえず、なんなら銃声すら聞こえない。それは主人公エディが、外界と向き合うことを拒否して、ただ父親に提示され"男らしさ"を実現する為に気付かないふりをして人生を進める様のメタファーだといえる。
彼の気づかなさっぷりは凄まじいわけだが、そんな彼を石一つで"気づかせてくれる"のがアンバーなのだ。エディがゲイであることを否定して男らしさへの盲目的に進む人生を、食い止めてくれるアンバーとの出会いの衝撃たるや。そのままに"衝撃"であり、コメディ的かつラストの感動にも直結する演出で、"石を投げる"という行為が、差別排斥とは真逆の意味合いで使われているのだ。流石デビッド・フレインと言わざるを得ない。
有害な男らしさ
この映画は、エディーがゲイだと認めるまでの物語だと要約出来るが、そこにはゲイがカミングアウトすることや自分らしく生きるのが未だ難しい1995年(スコットランドで同性愛が違法でなくなって2年後)という時代背景があることが重要であり、そのことを念頭に置かないとエディの抱える問題を真摯に感じることは難しいだろう。
更に加えてゲイ云々ではなく、父親が固執する"男らしさ"がエディを苦しめるのだ。エディは父親に認められたい一心で、有害な男性像を演じるが上手くいかない。それはゲイとは関係なく昨今の男性にも当てはまる悩みになる。これらは切り離して考えるべきながらも、1995年という年において、やはり複雑に絡みあう問題だったのは間違いない。ただデビッド・フレインの演出が際立つのは、ゲイ差別をする学生もマチズモを押し付けてくる父親も決して悪として描かないバランス感覚だろう。父親との会話や同級生の会話の中で、絶妙に憎めない感じが上手いこと演出されている。
違いは埋められないけれど
本作のストーリーの起点は、ゲイでありながらも隠したい/マッチョな男になりたいという状況(前述したヘッドホンで走る様そのもの)に石をぶつけて、彼を外に開かせてくれたアンバーと「偽のカップル」になることにある。
彼らはそれまでほとんど面識がない中で、互いに生きにくいこの街を出るまで連帯してサバイブしようとするのだ。二人の仲が深まっていく様が何よりも尊く、ユーモラスさが本作の一つの見所になっているのは間違いない。ただ重要なのが連帯は出来るが、彼らは同じように生きることは出来ないという描き方である。それは『CURED』のデイビット・フレインらしさが最も溢れているところだと言えるかもしれない。
『CURED』は"ゾンビが人間に戻れる"という世界において、ゾンビと人間を何で区別するのか、相互に分かり合えるのかということが描かれ、「違いを埋めることは出来ないが、抱える喪失は同じなのだ、一緒に生きることは出来るかもしれない」とした。
本作もまさにホモとレズ、エディとアンバーは結局は違うし、それぞれの生き方も異なるのだという視座がある。だからこの「偽のカップル」も当然破局を迎えるのだ。だが彼らが共有した時間の中で、互いに生きづらい時代に生まれた身として、思いやって生きることは出来るとしたのだ。
それがアンバーが貯めたドル札の入ったカンカンを渡すという行為に詰まっていて、その直前で彼が遂に後戻り出来なくなる一歩手前で彼を踏みとどまらせた石に、私は涙した。
埋まらない隔絶を認めた上で寄り添うという行為、それが何よりも現実に必要なことだとわかっているからこそデイビッド・フレイン監督は信頼出来る。
今後も楽しみにしていきたい監督の一人だ。