劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

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散りばめられたメタファーが社会の正体を暴く『ゼイリブ』

今回紹介するのは1988年ジョン・カーペンター監督製作、今でもカルト的人気のあるコメディーホラー作品『ゼイリブ』です。原題は『THEY LIVE』で"彼らは存在する"といった意味合いでしょうか。

彼らとは一体何なのか。メタファーで紡がれる本作の社会風刺的メッセージの数々に触れながら、本作の魅力を紹介していきたいと思います。

 

『ゼイリブ』(米1988年)[ジョン・カーペンター監督 主演:ロディ・パイパー]

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あらすじ

貧富の差が開き続ける社会、ナダ(ロディ・パイパー)は肉体労働で日銭を稼いで必死に生きていた。そんな彼はある日、サングラスを拾う。サングラスを掛けてみると、日常にある広告看板やチラシは誰かからの命令文に変わり、路上を歩く人々は骸骨のような容姿の宇宙人に変わる。それがこの世界の真の姿だったのだ。

 

宇宙人に知らずのうちに侵略されていたことに気づいたナダは、友人フランク(キース・デイヴィッド)と共に立ち向かっていく。

 

目次

 

貧困層は富裕層を人間として認識できない

ジョン・カーペンター監督は本作で貧富の格差"民衆"対"体制"という構図を人と宇宙人に例えて描いている。何故、体制側の人間や富裕層が"宇宙人"として描かれているのかについて考えてみよう。

 

貧富の差を人と宇宙人の対立というメタファーで描いたのは『貧困層は富裕層を人間として認識できなくなっている』という考え方から来ている。

 

壊されたキャンプ地でボロボロの服を拾う貧困層とテレビに映し出されるファッションショー行う富裕層という構造が対比的であるように、差の生み出した隔たりが互いを同種と認識できないほどに大きなものにしてしまっていると本作は語っている。

 

それは貧富の差だけに留まらない。既得権益により社会は搾取され、この星の資源は無計画に消費され続ける。そんな世界の実情はあまりに現実離れ、だが確実にそこに存在する実情であることを、ジョン・カーペンター監督は

「人類の首を絞めるような自虐的行為をする奴が、まさか人間であるはずがないじゃないか!こんなこと、宇宙人の侵略と思わなければ辻褄が合わないじゃないか!」

と当時のアメリカの消費文化への絶望を込めて、シニカルに皮肉っているのである。

些かブラックジョークが過ぎるが、見事なメタファー表現であり、宇宙人に置き換えることで、観客の感じていた無形の心象を有形にして観客の心に棘を残す。これぞ、風刺的メッセージであると思う。

 

貧困層の怒りの正当化

本作を観ていて、どうしても危険を感じてしまったのは、貧困層の怒りの矛先を宇宙人という"人でない存在"に向けることで正当化していることだ。

 

本作では侵略宇宙人を倒す人類の味方として、貧困層を代表するナダフランクをヒロイックに描かれている。宇宙人に置き換えているからこそ違和感はないが、やっていることは富裕層への無差別な殺人行為だ。

 

貧困層は常にテレビという"窓"を通して、富裕層に対して鬱屈した感情を内に育てている。そういった感情がサングラスを通して"人ではない"と分かった瞬間に溢れ出し、躊躇いもなく引き金に手を掛けさせる。

人は人でないものであれば、簡単に傷つけられる生き物だ。

だから貧困層の抱えている鬱屈した感情に「富裕層の人間を人として認識出来なくなる」きっかけを与えるだけで貧民層の怒りは溢れだし、容易に殺人に繋ってしまうのだ。

 

このメタファーを上手く利用した正当化は、観客に貧民層への肯定感を植え付け、観客を貧困層に感情移入させ、貧民層側にポジショニングさせる。

 

だが実際に、この映画を観ている人間のなかで、ナダやフランクのように、家無しで日銭を稼ぎながらギリギリで生きる人間がどれだけいるだろうか。

ほとんどはこの消費社会の恩恵に預かり、世界が破滅に向かっていることを理解しながらも、気づかないようにして生きている人間なはずだ。

これはそれぞれの境遇によって違うが、ほとんどの人間が「富裕層よりの存在でありながら貧困層だと勘違いしている存在」であるということだ。

 

「サングラスを通して見ると正体が分かる」という本作のシステムはつまり、”客観視によってでしか正体は見抜けない”という自分には見えない自分を示唆している。

本作に鏡で自分を観る描写がないこと、そのサングラスを通して、ナダが自分を観ることがなかったことも裏付けているともいえる。(これはこじつけに過ぎないかも)

 

このメタファーによる貧困層の正当化客観視点の欠如も相まって、我々は貧困層へとポジショニングしていく。

 

観客はまんまと誘導されながら、ラストシーンを迎える。

ナダはテレビ局の屋上に到着し、アンテナを破壊し、ヘリに向かって中指を立てながら死んでいく。

 

だが、この中指を立てたシーンは画面の前の我々に向けてのだと捉えることが出来る。

富裕層よりの存在でありながら、貧困層だと勘違いしている我々に向かって、ナダは最後に第四の壁を越えて、とびっきりの"悪態"をついてくるのだ。

 

この"映画世界と現実"の関係は、作中のモチーフである"テレビ"の"画面を通して誰かを見る"という行為と合致しており、本作のテレビ文化への警鐘とも繋がっていると言える。

 

「THEY LIVE WE SLEEP」

 

教会の壁に描かれていたこの言葉は"タイトル"にも引用されている。

体制は「人ならざる何か」であるとする体制批判を意味する「THEY LIVE」

では「WE SLEEP」とは何か。それはこの世界の現状を薄々と感じながら、盲目に生きる存在達を示唆している。フランクがそうであったように現状を維持しようとする人達の存在が本作では描かれており、そういった存在がいるから宇宙人に支配されるなんて状況が成立してしまっていると、本作では皮肉に語っている。

 

そんな民衆が"眠れる奴隷"となっている現状をナダは全てをぶっ壊すことで、変えてしまう。民衆は突如、強制的に向き合わなければならないようになるのである。その世界は正しいのか正しくないのか、幸せなのか幸せじゃないのか、コメディーとして占めた本作のラスト程甘い未来ではないことは確かだ。

 

最後に

本作では社会風刺的なテーマをメタファー、モチーフを駆使して飲み込みやすくエンタメに仕上げている。今取り上げたメタファー数々は本作の全てではない。

だから貴方も今作に隠された"メッセージ"を自ら汲み取って欲しい。作中のような便利な"サングラス"は現実に存在しない。是非自らの手で見つけ出して欲しい。