劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

『なまず/Maggie』虚実を跨ぐシンクホールとなまず 劇場映画批評76回

題名:『なまず』
製作国:韓国

監督:イ・オクソプ監督

脚本:ク・ギョファン、イ・オクソプ

公開年:2020年

製作年:2018年

目次

 

あらすじ

ソウル郊外の病院で、1枚の恥ずかしいレントゲン写真が流出する騒ぎが起こる。看護師のユニョンは、その写真が自分と恋人ソンウォンを写したものだと誤解。イ副院長は写真の主をユニョンと決めつけ、彼女に自宅待機を命じる。同じ頃、韓国各地で巨大な穴が出現する怪現象が発生。無職だったソンウォンは埋め戻し工事の職を得るが、仕事中に大切な指輪を紛失してしまう。ソンウォンは同僚を疑い、ユニョンはソンウォンが嘘をついているのではないかと考える。病院の水槽では、そんなゴタゴタを1匹のなまずが見つめていた。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのはイ・オクソプ監督の『なまず/Maggie』である。主演は『野球少女』や『梨泰院クラス』で一躍有名となったイ・ジュヨン。ただ本作はそういった作品で知名度が上がる前に撮られており、イ・オクソプ監督の慧眼を認めざるを得ないだろう。

なんてキュートでブラックなユニョン(イ・ジュヨン)の世界。
勝手に膨らんでいく想像の功罪が詰まっていて、希望的かつ絶望的な観測によって、世界が愛しくも残酷に面白がって描写される。今年日本公開の作品の中でも比類なき傑作だろう。では早速語っていこう。

 

勝手に膨らんでいく想像

本作において描かれているのは「勝手に膨らんでいく想像」の功罪。「勝手に膨らんでいく想像」は、目の前の現象を拡大解釈して底なし無根拠の被害妄想に陥れてくるが、その一方で映画というイマジネーションの源泉であり、ナマズと喋るのも「勝手に膨らんでいく想像」によってもたらせるものだとポップなファンタジーがちりばめられる本作を観れば分かるはず。

 では「勝手に膨らんでいく想像」が人に向けられたとき、果たして人を信じることが出来るのか。悪い種がその人を想像力を栄養にムクムクと育ち、その人を「悪人」として定義してしまったとき、「善性」を信じることができるのか。その信じるべきか否かは抜け出し難いジレンマであり、簡単に答えを導き出せる方法はない。

 本作は綺麗に三幕構成になっており、メインの三つのエピソードである「レントゲン事件」、「指輪紛失事件」、「元カノ暴力疑惑事件」と、アバンともいえるクリーニング屋の出来事も含めて、見事に「勝手に膨らんでいく想像」をどう対処すれば良いのかについての話になっている。
 例えば冒頭の"SEX-ray"の下りでは、病院の従業員が件のレントゲンが「写っているのは自分かもしれない」と疑心暗鬼になり、仕事場に全員来なくなってしまう。まさに「勝手に膨らむ想像」が他人事を自分事にしてしまった結果であり、主人公すらも疑心暗鬼に陥ってしまう。更に病欠が虚偽の申告なのでは?と考えてしまうイ副院長も登場し、疑心暗鬼が状況を動かしていく。「レントゲン室でSEXする」という行為は誰しもがやることじゃない。にも関わらず、もしかしたら自分がやったことかもしれないと思ってしまうのは「勝手に膨らんでいく想像」の恐ろしさをコメディー調に伝えている。
 この冒頭の第一幕を皮切りに、第二幕のペアリングの下りや第三幕の元カノへの暴力を振っていたこと、どれもが「勝手に膨らんでいく想像」がもたらす疑心暗鬼によって物語は展開されていく。

 

 

第一幕、第二幕で入念に前振り

疑心暗鬼に対して本作は、「信じるべき」の態度を第一幕第二幕と貫く。第二部の疑心暗鬼が現実を曲解させてしまい、嫌な思いをするという流れは悲しいすれ違いを引き起こしてしまい、簡単に「人を疑っちゃダメ」という結論を導く。ただその展開を前提とすることで、第三幕の結末が秀逸なものになる。

元カノに暴力を振るっていたことを知り、勝手に想像を膨らませ、ついには殺されるのではないかと考えるようになったユニョン。対して何も知らず、険悪になって別れを告げられるソンウォン。2人は時間を置き、対面して話し合う。ユニョンは第一幕での出来事が頭にあり、人を疑ってかかっては行けないと考える。その思考は第一幕があるからこそ自然であり、質素ながら2人の幸せな生活を描写してきたことが、より一層、展開を強化する。対してソンウォンは第二幕の経験を踏まえて、勝手に想像をふくらませてはいないかと尋ねる。この言葉には第二幕の出来事があるおかげで、より真に迫るものになる。
確かにこのシーンにおいて、ユニョンは誇大妄想を抱えているのは確かだ。ソンウォンはユニョンを殺そうなんて考えてない。ただ一方で、ソンウォンが元カノを殴ったことがあるのも事実であり、ユニョンの懸念は事実だと判明してしまう。

 互いに第一幕第二幕の経験を通して学んだ教訓をから来る言動にも関わらず、結果はユニョンにとっては裏切られたわけで、ソンウォンにとっては「殺される」の部分は「勝手に膨らんでいく妄想」そのものだったが、肝心のDVは「真実」だったというオチ。なので結局二人は破局というのが面白い。

 この顛末の原因をどこに求めるかは結構別れると思う。例えば、元カノを殴ってたソンウォンが悪いとか、事情も聞かず、今現在殴られた訳でもないユニョンの被害妄想の結果だとか、色々あるだろう。
ただその結末が「勝手に膨らんでいく想像」がパン!!と割れた瞬間のような弾け感が本作の素晴らしいところなのは間違いない。第一幕、第二幕で入念に前振りしてこの結末に集約されている、この上ないカタルシス…なのか?

よく分からないが爽快さがある。

虚実を跨ぐシンクホールとなまず

結末に付随してメタファーとして機能するシンクホールと呼ばれる地盤沈下の穴について考えてみたい。この穴はリアリティーラインを跨ぐように配置されていて、冒頭のユニョンの足元に出来た穴は明らかにユニョンだけにしか見えないもの。ただ一方でソンウォンにとって就職先をもたらした穴は現実に確実に起こったこと。ユニョンにとっては非現実でソンウォンにとっては現実で、ちょうど彼らの間にあるのがあのシンクホールなのである。
また本作の語り手である「なまず」はその穴と密接に結びつき、穴同様に2人の間にあり、また虚実を跨いでいる。
穴は勝手に膨らんでいく想像によってドツボにハマっていくことのメタファーであり、作中の「穴に落ちたときは掘り進むのではなく登るべきだ」というのが本作のスタンスであることは間違いないのだが、その一方で人を疑わないことや人を想像で決めつけることの抗えなさというのも描いていると思うのだ。

対して「なまず」は「勝手に膨らんでいく想像」の善性を象徴であり、ユニョンに永遠の味方なのだ。地震を予感し、知らせてくれるナマズはつまり、シンクホールが生まれること(=疑心暗鬼が生まれること)を警鐘してくる存在なのだ。

 

最後に

最後穴に落ちながらも生きているソンウォンに僅かな関係修復の希望を感じながらも、後腐れなく終わる本作、可愛くてたまらない演出の数々も含めて大好きです。