劇場からの失踪

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『LAMB』目を背けるためのピアノ 劇場映画批評86回

LAMB/ラム の映画情報 - Yahoo!映画

題名:『LAMB』
製作国:アイスランド・スウェーデン・ポーランド

監督:バルディミール・ヨハンソン監督

脚本:ショーン バルディミール・ヨハンソン

音楽:ソーラリン・グドナソン

撮影:イーライ・アレンソン

美術:スノッリ・フレイル・ヒルマルソン
公開年:2022年

製作年:2021年

 

目次

 

あらすじ

アイスランドの田舎で暮らす羊飼いの夫婦が、羊から産まれた羊ではない何かを育て、やがて破滅へと導かれていく様を描いたスリラー。「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などの特殊効果を担当したバルディミール・ヨハンソンの長編監督デビュー作。

山間に住む羊飼いの夫婦イングヴァルとマリアが羊の出産に立ち会うと、羊ではない何かが産まれてくる。子どもを亡くしていた2人は、その「何か」に「アダ」と名付け育てることにする。アダとの生活は幸せな時間だったが、やがてアダは2人を破滅へと導いていく。

「プロメテウス」「ミレニアム」シリーズのノオミ・ラパスが主人公マリアを演じ、製作総指揮も務めた。アイスランドの作家・詩人として知られ、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の歌劇脚本を手がけたショーンがヨハンソンとともに共同脚本を担当。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのはA24製作の新作映画『LAMB』である。登場するだけで不穏さを醸し出すこと請け合いのノオミ・ラパスを主演に、半人半羊の子供が登場する予告編など期待値の高まり、界隈でもかなり話題になった作品である。

では早速語っていこう。

 

目を背ける

様々な不可解な超自然的な事象が描かれ、不穏さが常に立ち込めながらも、極めて普遍的な親の心情が中心にある。
言ってしまえばこの映画には、序盤に提示された不可思議な状況に対して、そこから想像出来る範囲を超えた出来事は起こらない。なぜなら「子供を攫い、取り返された」だけに過ぎない話だからだ。

詳しく述べるのなら、そこに何か人智を超えた出来事によってホラー映画のような出来事が起こるわけではなく、家族や男女、親子の間に起こりうる出来事が、バックの大自然に不釣り合いなクローズドな空間で行われているに過ぎないということ。

そう思うと、本作の異質なビジュアルや空気感は、登場する親子と観客の認識の不一致から生まれているのだろう。本作はマリアらが常に現実から目を背けることで別のジャンルへと移動しない。常に、都合の良い現実を維持するために目を背けるのだ。

それが最も象徴的に描かれているのは、終盤のピアノシーンだろう。言いよってきたために閉じ込めた夫の兄弟が叫ぶ中で、マリアはピアノでその声を打ち消すように演奏する。その様が正しく、本作の委細を無視して都合のいい平穏な現実を保とうとしてきたこの家族を象徴している。本作の結末が、上記したような現実が突きつけられ、言葉も出ない状態でマリアが一人何かを見つめるというのは、現実逃避の先の結末に相応しいものといえるだろう。

 


また本作を見ていて、極めて個人的な「孤独を癒す為に子供を作る、或いはペットを飼うという行為」の違和感について示唆するものではないかと感じた。
言葉を発さないアダの感情を、好き勝手に理解してはいないか。

彼が自らのアイデンティティについて何も思わずにいると思うのだろうか。

壁に掛けられた山羊の絵画や、自分と同じ容姿の生き物が一切でないテレビに、アダは何を思ったのか。そういったことに全く自覚的でないあの夫婦は、自分たちの幸せをアダと共有した気になっている。
相互に愛はあったものの、それ以上に一方通行な都合の押し付けであるその関係は「愛玩」と何が違うのだろう。子供なのかペットなのか、どちらかと言えば、その在り方はペットに見えてしまう。

極めて個人的な欲に基づいて子供が欲しいという感情の背景にある複雑な動機について、その顛末も含めて考える必要があるのではないだろうか。何故夫婦はあのバットエンドに至ったのか。まるで唐突で出来事のように思えるあの顛末は、子供には母親と"父親"がいる、そんな当たり前なことに目を向けていれば、想定できたことではないだろうか。主人公たちに起こったことがある種自業自得に思える展開は、そういった「愛玩」の結果といえるかもしれない。

目を背けるという行為が、果たして何の為に子供が欲しいのか、という問いに行き着き、欺瞞を炙り出す。

そういう意味でいうと『ベイビーブローカー』が今年の作品では近い気がしている。