劇場からの失踪

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『マヤの秘密』マヤの天秤は現在を測らない 劇場映画批評第38回

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題名:『マヤの秘密』
製作国:アメリカ
監督: ユバール・アドラー監督
公開年:2022年

製作年:2020年

 

目次

 

あらすじ

1950年代後半、アメリカ郊外の街。ある日、ロマ民族のマヤ(ノオミ・ラパス)は、街で男の指笛を聞いた瞬間、“ある悪夢”が蘇ってくる。最近、近所に越してきたその男は、戦時中に自分を暴行し、妹を殺したナチスの軍人で、マヤがいまでも悩まされる悪夢の元凶だった。マヤは復讐心から男を殺そうと誘拐し、夫・ルイス(クリス・メッシーナ)の手を借りて地下室へと監禁するが、トーマスと名乗るその男(ジョエル・キナマン)は人違いだと主張し続ける。記憶がおぼろげなマヤは、男を殺したい気持ちと同時に、ただ事実を知りたいと罪の自白を男に強要し続ける。一方、男のほうもマヤの話を否定し続けるものの、何かを隠しているような表情をみせる。マヤを信じたい夫は、妻の狂気じみた行動と知らなかった秘密を知り、真実を突き止めようと奮闘する。さらに、監禁された男の妻(エイミー・サイメッツ)は、夫の安否を心配しながらも、自らの素性を話さなかった夫への不信感を募らせる。それぞれの秘密が明らかになるにつれ、新たな疑念が生まれる。何が真実なのか? 彼女の悪夢は《妄想》か? 《現実》か?

引用元:

maja-secret.com

 

今回紹介するのはユバール・アドラー監督による緊迫の監禁スリラームービー『マヤの秘密』だ。冒頭の牧歌的なシャボン玉遊びの光景が、指笛一つで崩壊し、泥沼な状況に転げ落ちていく流れに、日常の脆さを痛感させられる作品になっていた。マヤ演じるノオミ・ラパスといえば『シャーロックホームズ2』でジプシーを演じていたのが印象的で、今回もロマ民族というジプシーの中東欧に居住する移動型民族であった女性を演じる。ノオミ自身も本人曰く定かではないが、ロマのルーツがあるらしく、ノオミといえばロマ(ジプシー)役と定番化しつつあるのかもしれない。監禁されるナチス兵トーマス・スタンインは、『ザスーサイド・スクワッド』のジョエル・キナマンが演じる。こちらも酷い目に遭うマッチョ役が板につき始めた印象だ。

では早速語っていこう。

 

過去と現在を天秤にかけない

ナチス兵による陵辱、そして妹を殺された過去を持つマヤは、そのことを夫にすら、ひた隠しに生きていた。それは幸せな家庭を守るため、そして過去を忘れ去るための自己防衛であり、平和な日常を送るための最善の方法であった。この映画ではそんな平和な日常がマヤと息子パトリックがシャボン玉で遊ぶシーンに凝縮され、冒頭の僅かなシーンにしか描かれず、恐ろしいほど早い段階で平和な日常は崩壊する。だが、ここで忘れてはならないのは、平和な日常を壊すのは「マヤ」であるということだ。「過去のトラウマ」がフラッシュバックし、指笛の男があの因縁のナチス兵なのではないかと疑いはじめ、そして次第にその疑念は彼女の中で確信に変わり、ついには一線を越えて復讐鬼として暴走を始める。そんな彼女の猪突猛進な行動力こそが日常を崩壊させるのだ。その行動力は本当に恐ろしく、果たして本当に「平和な日常」を壊してまで行うべき事なのかと、思考を巡らせる隙すら観客や彼女自身に与えずにトーマスを拉致する。

「過去の清算」と「平和な日常」、彼女はこの二つを天秤に掛けるべきだった。しかし、彼女は天秤に掛けずに行動を起こし、地獄に滑り落ちていく。それは逆説的に、彼女の抱えている心の闇の大きさを物語るのだ。

 

食い違う会話、真相についての考察

トーマスはマヤの地下室に監禁されることになるが、その地下室があまりにもリビングに近すぎることが、本作の緊張感を醸成することとなる。同じように拷問で真相を聞き出そうとする映画だと『プリズナーズ』が思い出されるが、あの映画では日常がある自宅から離れた場所で拷問を行うことで、日常や家族と「非日常」を隔離していた。しかし本作の場合、日常の面影残る「リビング」と非日常的な狂気の現場としての「地下室」があまりに近すぎるため、マヤや夫のルイスは危険に晒され、日常を取り戻すことはより難しくなっていく。リビングと地下室の距離はそのまま日常と非日常の密接さを表し、本作のスリリングさをもたらす。

そこにはもはや「トーマスがあのナチス兵か否か」という最初の疑問は機能しない。観客の興味の持続にある程度は貢献するが、もはや話は次の次元に移行している。そもそも拷問で引き出した情報は信用できないこと、そして拉致監禁という違法手段のせいで、トーマスが誰であろうとマヤとルイスには、「トーマスを殺すか、自分が捕まるか」の二択しか残されていないのだ。現にこの映画は「トーマスがあのナチス兵か否か」に興味を示さなくなり、彼の正体以上に暴走するマヤに焦点を合わせ始める。だからこの映画はクライマックスにて、あっさりと"答え"を示してしまう。地下室から打って変わり、車で人気の無い場所に連れ出される。最終局面、殺すか殺さないかの瀬戸際にマヤはトーマスを詰問し、遂にトーマスは真相を告げる。そのあっさりさに多少拍子抜けしてしまったが、この映画の焦点が既にマヤの暴走、つまり「どうマヤが満足するか」にシフトしていることを思えば納得である。

このクライマックスについては色々な考察を行うことが出来る。それにはまず前提として、マヤ最大のトラウマが、「妹をおいて逃げてしまった」ことだと知る必要がある。マヤはたびたび、過去をフラッシュバックするが、その映像は一辺倒であり、廃屋に入ってくるナチス兵、引きずられていく妹、そして廃屋を飛び出していくマヤなどの映像が何度も何度も流れてくる。しかしマヤは当時のことは曖昧で覚えていないと語る。そのためこの映像として提示される記憶も定かではないのだろう。確かに観客にとってもこの映像は暗くて分かりづらく、何が起こったのか定かではない。しかし確かなことの一つとして分かるのはマヤは「明らかに逃げ出している」ということだ。

対して、カール(トーマス)は「マヤは寝ていて死体と勘違いしたから、見逃された」と語る。そこには明らかな認識の食い違いがある。だが、マヤはそのカールの言葉を信じ、自分は妹を見捨てていないと過去のトラウマを清算するのだ。

何故、食い違いが起こるのか。それはカールもまた戦争で心に傷を背負った人間だったからである。カールは確かに元ナチス兵であり、マヤのような女性に陵辱行為を行った人間であるはず。しかし彼もまた普通の人間で、戦争によっておかしくなり、その日に起こした非人道的行為を後悔し、悪夢にうなされる人物であった。つまり悪夢に苦しめられる戦争被害者という広義の意味では、カールとマヤには共通点があるといえる。

その上でクライマックスを見ると、カールとマヤの会話はそれぞれが誰にも相談できなかった過去のトラウマを告解し、許されようとしていたシーンだと分かる。マヤはそれがカールでなくとも「妹を置いて逃げなかった」と自分を納得できればよかったのだ。そしてカールもまた、そこに居たのがマヤであるか定かでなくとも、凶行を懺悔することに精一杯になっている。つまり、この会話はマヤとカールが実際に加害者と被害者の関係になくとも、戦争における加害側と被害側の関係で結ばれることで成立しうるのだ。目の前に居る男が本人であるかなど関係ない。マヤはひとりでに救われるのだ。

 

「前を向いて生きよう」の重み

このクライマックスのカールとマヤの会話に終止符を打つのは、夫のルイスの放つ銃弾だった。思えば、夫は二人とは違い、戦争で精神的な傷を負っていない一般人として配置される。そしてだからこそ現状の異常さに誰よりも心蝕まれていた存在だ。クライマックスの凶弾は遂に心が限界を迎え、狂気的な非日常に呑まれてしまった結果だといえる。これはまさに戦争という狂騒が容易に非人道的行為を引き起こす構図の縮図だ。

人は状況に呑まれ、我を失い、思いもよらぬ凶行に走ってしまう。それはマヤの起こした拉致監禁やカールが戦時に行った陵辱行為、そしてルイスの殺人、それら全てを根源的な共通点なのだ。

 

ルイスはカールを撃ち殺したことを後悔して、うちひしがれている。そんなルイスにマヤは「前を向いて生きよう」と優しく諭す。その言葉は以前、ルイスがマヤに投げかけた言葉と同じであった。ただ以前のその言葉が空虚にしか響かなかったのに対し、マヤの放つ言葉はあまりにも重い。その重さの違いは、心の傷を抱えることを真に理解しているか否かに依存するのだろう。方向感覚すら失い、過去と現在を天秤にすら掛けられない真の"闇"を知る者しか、「前を向いて生きよう」という言葉を相手に響かせることは出来ないのだ。

シャボン玉という何かを脆く包むようなモチーフで始まり、盛大に花を咲かせる花火でこの映画は終わる。脆い膜が壊れ、中身が吹き出して闇夜に消える。まさに彼女の心象なのだ。