劇場からの失踪

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『よだかの片想い』人は服を着てその痣を隠せる生き物だから 劇場映画批評85回

題名:『よだかの片想い』
製作国:日本

監督:安川有果 監督

脚本:城定秀夫

音楽:AMIKO

撮影:趙聖來

美術:松本良二
公開年:2022年

製作年:2021年

 


目次

 


あらすじ

女子大生の前田アイコは、顔の左側に大きなアザがある。幼い頃から畏怖やからかいの対象にされてきた彼女は、恋や遊びはすっかりあきらめ、大学院でも研究ひと筋の毎日を送っていた。そんなある日、「顔にアザや怪我を負った人」のルポタージュ本の取材を受けて話題となったことで、彼女を取り巻く状況は一変。本は映画化されることになり、監督の飛坂逢太と話をするうちに彼の人柄にひかれていく。飛坂への片思いを自覚したアイコは不器用に距離を縮めていく一方で、自身のコンプレックスとも正面から向き合うことになる。


引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

彼女が夜鷹から開放する物語

これまでいくつものフィクションにおいて身体に傷を抱えていたり、見た目に特徴的な部位がある登場人物に「よだかの星」はモチーフとして当てられてきた。
それが何故かと言うと、「よだかの星」という物語の結末が、もたらす悲壮感が登場人物の現在の心境を反映し、また時にラストへの予兆として機能するからだ。そういった物語の引用がもたらす効果は登場人物の属性の伝達及び強化を目的に、「裸の王様」や「星の王子さま」、「美女と野獣」等の古典でも数多の創作で引用されてきたわけだ。

だがそういった登場人物の属性を古典からの引用で決めつけることは、その人物に「宿命」を負わせることになる。人種やジェンダーに偏見を通して役割を与えることとどう違うのか。本作はそういった、属性からの開放、言い換えれば「宿命」からの解放を、運命的な出会いから恋愛の破綻を通して自己肯定に至ることで最終的に描き出す。

美しい共感と相互理解の話

基本的に本作は、飛坂という映画監督とアイコという大学院生の恋愛によって構成される。アイコは生まれながらに左頬にアザをもつ。そのアザと長い間向き合い、奇異への向けられる視線や自意識に対して常に気を張り、ファイトポーズを取って生きてきた。彼女が自伝を出版しているのも、自分の生き様を誰かに見せることが必要とされているような気がしていたのかもしれない。それは冒頭の表紙用の撮影の場においても同様だったはずだ。そんなアイコの心境を言い当てた、というか言語化してみせたのが、飛坂だ。
彼女がこれまで怯え、恥ずかしさを感じながらも、そのアザを隠さずに表に居ようとし続けた生き様を言い当てることは、彼女のこれまで誰にも理解されないだろう葛藤を理解してくれたに等しい。アイコにとって飛坂は、自分の理解者になってくれると思ったのだ。
だからこそ彼女の自伝の映画化を受け入れた。

 

彼女はよだかではない

ここまでは確かに美しい共感と相互理解の話に思えるし、宮沢賢治がよだかを美しいと描いたように、アイコも美しいのだとするのは納得のいく物語だ。
もちろん今後の展開もこういった彼女の勇気や恥を賛歌し、「痣があろうと堂々と生きてもいい」というエンパワーメントなメッセージは覆らない。
だがその物語は、飛坂との恋愛が上手くいかなくなっていく様、特に自分の鏡像として飛坂の作る映画が立ち表れ始める中で変化していく。そこによだかからの解放の物語がある。


彼女にとって幼少期にはプリミティブな感覚で全く嫌ではなかったアザが、アイデンティティとすら思っていなかったアザが、今や自身において一番上のレイヤーとして前景化している。なにをするにしても「アザ」というアイデンティティは覆らず、それに対してのスタンスを表明しなければいけなくなる。映画化もまた、そういったスタンスの表明にほかならず、彼女はアザなしに語られない存在になる
だが、果たしてそれしか彼女の生き方はないのだろうか。アザのない彼女の人生は、歩めないのか。


いや、違うだろう。


まりえ先輩の言葉に答えがある。
「人は裸で生きる生き物じゃないんだから」
この言葉には、明確なよだかとアイコの区別がある。つまり、アイコはそのアザを如何様にも隠したり、無くしたり出来るのだから、よだかではないという事だ

当たり前の話だ。だが、それこそが彼女にとって必要なことだったのだ。

安易に属性(アイデンティティ)を付与して、そのアイデンティティを肯定するか否定するかの二択を迫られる。

違う、それは必ずしも必要な二択ではないのだ。

アイコを"よだか"として消費し、アザなしのアイコを肯定しない世界から一歩踏み出し、属性から解放されることこそが本作の行き着いた答えなのだ。


アザがなくても彼女は、彼女なのである。それでいて最後の今にも羽ばたきそうなダンスは鳥を思わせるのは、「よだかの星」という表象を否定しない様であり、グルグルと回る様は左右を常に意識して生きてきた彼女の解放を体現するようだ。
ラストの身振り手振りを以って、よだかというエンパワーメントや何かの象徴として表象から彼女は解き放れたのだ。
単なる恋愛映画なんて言う評価は全くの論外。