劇場からの失踪

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『ヒトラーのための虐殺会議』会議には前提がある 劇場映画批評101回 

題名:『ヒトラーのための虐殺会議』
製作国:

監督:マッティ・ゲショネック監督

脚本:マグヌス・ファットロット パウル・モンメルツ

撮影:テオ・ビールケンズ

美術:ベルント・レペル
公開年:2023年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

1942年1月20日正午、ベルリンのバンゼー湖畔に建つ大邸宅にナチス親衛隊と各事務次官が集められ、「ユダヤ人問題の最終的解決」を議題とする会議が開かれた。「最終的解決」はヨーロッパにいるユダヤ人を計画的に抹殺することを意味する。国家保安部代表ラインハルト・ハイドリヒを議長とする高官15名と秘書1名により、移送、強制収容、強制労働、計画的殺害などの方策が異論すら出ることなく淡々と議決され、1100万人ものユダヤ人の運命がたったの90分で決定づけられた。

引用元:

eiga.com

 

※以降ネタバレあり

 

本作の断固たる意志

会議を扱った作品は数あり、個人的には『十二人の怒れる男』を一番に思い出すのだが、本作はそういった作品と比べるとあまりに"会議"として純化され過ぎている
劇伴がまずない。

会議における肝心な場面、或いは各人の思惑の衝突が激化する場面で、本来の劇映画なら"盛り上げる"のだが、それを本作はやろうとしない。
また登場する人物たちにおいても名前と役職という最低限の情報しか開示されず、不意に時系列を入れ替えたりもしない。とにかく"会議"を滞りなく再現するのだ。本作は1940年1月20日に起こったヴァンゼー会議の議事録に基づいた作品であり、限りなく"会議"を再現するのだ。
本来ならもっとエンタメ的に、なんならもっと露悪的に描くことも出来たであろうにしない。そこに「虐殺を容認する異常極まりない会議が実際に起こった、そしてそんな異常な会議で国の方針を決めるナチス・ドイツという国があったこと」を再び知らしめるという本作の断固たる意志を感じる。

 


会議には必ず議題があり、その議題についてのみが話し合われる。そしてその会議には参加する全ての人が共有する「目標」や「認識」といった前提がある。一般的な会社であれば、それは「利益」だったり「企業成長」が目標や共通認識になる。その会議に「そもそも利益を上げるべきか考えませんか?」とか言い出す奴は存在しないのだ。
会議には前提がある、ヴァンゼー会議にも"前提"があった。「ユダヤ人種は全滅しなければならない」という前提があったのだ。
一見してこの会議は軍部側と官僚側の対立を軸とした複雑なパワーゲームであり、議題はその舞台でしかない。

だがその議題の前提にユダヤ人虐殺が目的かつ共通認識としてあるのだ。そのうえで彼らは「何が正しいのか」を協議し、ビジネスのように方針を決めていく。そこには先程行ったパワーゲームや遵法精神、良心の呵責などが展開されるが、そもそも前提が「ユダヤ人虐殺」である為に最初から詰んでいるのだ。


特に一際印象に残ったのは、バビ・ヤール大虐殺が「アウシュヴィッツ強制収容所」へと繋がっていく一連の流れである。一連の流れとは、ユダヤ人を直接銃殺することは兵士の精神への負担になり、銃弾も勿体ない、だから「効率」的で「精神衛生」にも良くて「遠隔」で行えるアウシュヴィッツ強制収容所を作ろうという流れ。
私は以前セルゲイ・ロヅニツァの『バビ・ヤール』を鑑賞したときにその一連の流れを知り戦慄したのだが、本作はその一連の流れが如何に発生したのか描いている。
この時、私はこれまで知識だけでしかなかったことを「体験」した気分になった。それだけ真に迫る狂気的なやり取りが再現出来ていたということだろう。

ユダヤ人の押し付け合い、ユダヤ人の定義、断種や疎開、それらが平和そのもののヴァンゼーで話し合われ、決定し、戦場で「個々人の死」という形で具体化される。パンフレットに書いてあるように我々もまた戦争を知らない世代であり、それらをただ遠くから想像するに過ぎない。彼ら会議参加者と何が違うのかを考える必要がある。つまりそれは「前提」が間違っていないか考えなければという話であり、差別いまだ蔓延る社会で、何を正す必要があるのか見定める必要がある。