劇場からの失踪

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映画批評『コラテラル』一寸先の闇がトム・クルーズ

題名:『コラテラル』
製作国:アメリカ

監督:マイケル・マン監督

脚本:スチュアート・ビーティ―

音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

撮影:ディオン・ビーブ、ポール・キャメロン

美術:Daniel T. Dorrance
公開年:2004年

製作年:2004年

 

目次

 

あらすじ

トム・クルーズが冷酷な殺し屋役に挑んだクライムサスペンス。「Ray レイ」のジェイミー・フォックスが共演し、殺し屋を乗せてしまったタクシー運転手が過ごす悪夢のような一夜を描く。ロサンゼルスの平凡なタクシー運転手マックスは、ある晩、検事の女性アニーを客として乗せ、車内での会話を通して互いに好感を抱く。次に拾ったビジネスマン風の客ヴィンセントは、仕事のため一晩で5カ所を回らなければならないと話し、マックスを専属ドライバーとして雇いたいと依頼。高額の報酬にひかれて引き受けるマックスだったが、実はヴィンセントの正体はプロの殺し屋で、麻薬組織から5人を殺害する任務を請け負っていた。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは久しぶりの自宅鑑賞作品。作品はマイケル・マン監督の『コラテラル』である。2022年6月時点、最高の盛り上がりを見せている『トップガン マーヴェリック』で完全に魅せられた私は、トムの過去作を物色、その中で見つけたのが本作である。トム・クルーズが悪役という斬新なキャスティングに目を惹かれるが、それ以上に作品として出来が本当にいい!

ので、是非取り上げたいと考え筆を執った。では早速語っていく。

 

 

「やり遂げてきた男」に追われる恐怖

この映画は"魔法"のような時間で始まる。タクシーという密室の中で、見知らぬ運転手と乗客が普段とは違う圧縮された時間を過ごし、急接近する。

日常の中のほんの僅かな非日常が生み出すそんなマジックをこの映画はロサンゼルスの夜を美しく映し出す空撮と、車内の男女の口数は少ないが、確かに関係を深める会話劇によって確か演出する。出会い一つがあれば、それは「魔法」であり「映画」だ。

だが、本作は、「魔法」のような出会いを呼び水にして――そして幸か不幸か主人公マックスの人生を大きく変えてしまう出会いとして――災厄の出会いを並置するのだ。

メーターが切られることのない、長い長いロサンゼルスの夜が始まる――

 

この大傑作を語るならら二つの要点を挙げられるだろう。

一つはトム・クルーズにとって異例の悪役キャスティング。もう一つは『トレーニングデイ』やトニースコット作品を思い起こさせるポリシーのぶつかり合いについての物語という語り口だ。

①2022時点でトム・クルーズ最新作である『トップガン マーヴェリック』において、何度も反復された言葉として「なんだその目つきは?」というものがある。これはトム・クルーズ演じるマーヴェリックに向けられた言葉で、彼は「普段通りさ」と応える。

この言葉が面白いのは実際のところ、彼自身の眼差しへの言及ではなく、彼に対して周囲の彼を"知っている"人が、おのずと向けてしまう羨望や期待の眼差しにこそこの言葉の本質的な部分にある。

つまり劇中の人物が「またやってくれるんじゃないか」と、不可能に挑戦するマーヴェリック(トム・クルーズ本人)に向けてしまう眼差しが「なんだその目つきは?」といわせるのだ。
これは劇場に来た観客が画面のトム・クルーズが演じるキャラクターに向ける「またやってくれるんじゃないか」の眼差しと同じだ。ここにトム・クルーズの常に役と同一視されてきた特異性が滲み、「やり遂げてきた男」としての実績そのものだといえる。

私はいつもトム・クルーズの映画に対するストイックさについて考えるとき、絶壁を命綱なしで昇るトムの姿が思い浮かぶ。彼の実績とはつまりその今、手をかけている遥か高所の絶壁と眼下の地表、その距離なのだ。


で、本作はそんな男が悪役として登場する。

これ程までに恐ろしいことはないし、主人公のマックスには心底同情してしまう。

M:Iばりのキレキレな動きで、忖度なしに主人公に銃口を向けていく男の名はヴィンセント。これ程恐ろしい悪役(主人公にとっての脅威を指す)はあるだろうか。アクションスターとしての身体性を遺憾無く発揮し、主人公を血の果てまで追いかける終盤のシークエンスは本当に恐ろしく、緊張感をその存在のみで継続させる存在感があった。

またトム・クルーズが笑わないとこんなに怖いのか、という映画でもある。彼の人のストイックさを少しベクトルを変えるだけで男根の権化ともいうべき、凶悪な男性性が表現できるのか。その印象を一挙に担うのは間違いなく、いつもの彼の笑顔を封印した演技方針にある。トム・クルーズだからこそ、ジェイミー・フォックスの脅威として、タクシーに乗り込むことが出来た。天晴れな配役と演技だった。

 

停めたという行為の主体性

そんなヴィンセントと一夜の殺人ツアーを同行するのはジェイミー・フォックス演じるマックスというタクシー運転手だ。
この物語は冒頭の出来事によって「魔法のような出会い」が重要なファクターであると顕著に示す。
「魔法のような出会い」は冒頭から一転悪夢的な意味合いに変わるが、それもまたある観点から言えば、更に一転するのだからこの映画は面白い。この出会いがもたらすのは二人の男のポリシーの対立であり、「気づき」である。冷徹に仕事をし、常にマクロな視点で合理的に行動する殺し屋と、いつか夢を実現すると言いながらも12年も「繋ぎの仕事」をやっているドライバー。特にマックス視点で言えば「いつか」と漠然と未来を信じていた彼に「10分」先の未来すらも危うくさせる存在として現れる彼は、一寸先に広がる"闇"そのものであり、死神というのが相応しいだろう。


また「ファイトクラブ」のような対立的な男性像が描か方としても捉えることが出来る。2人は互いに引力を感じて同一化していくのだが、それらを一つの密室空間(車内)によって表現しているのは一つの見事な点だといえる。単純だが、彼らの車内での位置関係がこの二人の精神的な距離感や支配関係に結び付けられており、ヴィンセントを名乗り、クラブに行った帰りに彼の背後に座る場面は決定な同一化の瞬間と考えることも出来る。

しかし本作は、上述したようにポリシーの対立が根底にあるからこそ、同一化することは無いのだ。それを決定づけるのが、その後に来る車を停止させ、動物を見送るシーンである。ここに自分は胸打たれた。劇伴の絶妙なチョイスとタイミングのみを意味するのではなく、そこに静かなる抵抗の兆しが見えるからだ。


至って冷静に見れば、この鉄の箱の操縦しているのはマックスという男だ。にもかかわらず銃1つで彼は自らの選択肢を奪われている。それは一つの人生のメタファーとして、彼がこれまで鳴かず飛ばずであったろうこれまでの彼の人生と重なる。だからこそ彼が自らの車を自らの意思で、停めたという行為の主体性に、抵抗の兆しを感じるのだ。そこから彼は見事に「ハンドルを切る」ことによって人生を取り戻す。ヴィンセント=人殺しと分かった際に「車をあげるから」と逃げ腰だった頃と比較するとより一層、カタルシスが生まれるだろう。

この映画は二人の男の一夜の物語だ。そしてそんな夜に水面下で起こっていたのは、一回分の友情と相容れないポリシーの対立(善悪の対立と言い換えてもいいだろう)なのだ。