劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

若者の魂の漂流 『パーマネントバケーション』

  f:id:Arch_movie:20200330211531j:plain

今回紹介するのはジム・ジャームッシュ監督、初監督作品『パーマネントバケーション』(米1980年)である。

     

       

 

ニューヨーク大学で映画を専攻した彼が、その卒業制作として製作された初長編映画で、ニューヨーク郊外を彷徨うように歩く若者の爛れた一日をエモーショナルに描いている。捉えどころのない物語でありながら、高精度に"若者の精神"を捉える人物像の描き方は初監督作品にしては規格外に思える。そんな作品をネタバレありで考察したりその魅力を紹介していきたい。

 

 

あらすじ

ニューヨーク郊外、街を当てもなく彷徨う若い男が居る。名はアロイシュス・パーカー(16)。この街に居場所を求めるように彷徨い、今日も爛れた一日を過ごす。彼の内なる地獄巡り。その魂の漂流のような一日を退廃的に描く。

 

主人公の人物像

 この作品を評するうえで焦点を合わせるべきなのは物語ではなく、主人公アロイシュス・パーカー(アリー)の人物像であろう。それはこの物語が彼の内なる世界の冒険であるからだ。

       

 彼は正しく、「等身大の若者」を体現した存在である。等身大の若者の体現者と言えば、サリンジャー著作「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンを連想するが、それに近い存在だ。一人称の語り口、人との交流から自分の内と無意識に向き合う姿が特に重なる。

 主人公アリーの人物像を端的に示す部分は序盤の部屋だ。

    

キザなセリフ回しで達観したように人生観を語る。音楽「Up There In Orbit」に合わせて、自己陶酔するように踊りだす。これらのシーンが彼が「自己陶酔した若者」だったり「若気の至り」を体現したような人物像の人間であることをよく表しているのだ。

 そんな彼が抱いているのは社会との隔絶だ。それが陶酔せよ、彼は孤独や疎外感を感じ、自分が居るべき場所は何処なのかと迷っている。だから彼は、ニューヨークの街を"漂流"する。(ちなみに何故"漂流"と表現したのか、それは彼の最後の門出を"旅"としたいため、別の表現とした。)自分の居場所はどこにあるのか。心に浮かぶ孤独や疎外感を埋めるにはどうすればいいのか。そういった若者の思春期にある苦悩、普遍的なティーンエイジスピリッツを持つ男、それが彼の本質なのだ。

 

若者の行く末を暗示する二人の存在

 彼はこの"漂流"で多くの人と出会う。出会いという現象を多くのロードムービーが"自己との対面"と同期させるように、今作でも出会いをそのようにして描いている。そんなアリーが出会う人々は彼と同じように社会に順応できない人々だ。だからこそ、アリーはその相手に自分を見ているのだ。

 特に「映画館に居たジョークを言う黒人」「パリから来た男」、彼らは今作の結末を語るうえで欠かせない存在である。

 「映画館に居たジョークを言う黒人」は「ドップラー効果」と題したジョークをアリーに聞かせる。

 



 彼のジョークに出てくるのは時代の先を行き過ぎて、時代に合わせられなかったサックス吹きの男だ。どうしても時代に合わせられず、仕事がない。ここではない何処かなら受け入れてくれるかもと"ここ"を飛び出す。しかし、結局変わらず、路頭に迷い人生に絶望し、飛び降り自殺をしようとする。屋根上に上ると彼は曇った空の切れ目に光を見る。その光景にふと「虹の彼方に」を思い出し、吹き始める。しかし、「虹の彼方に」の一部分しか思い出せず、何度も繰り返し吹き続ける。人が次第に彼の周りに集まりはじめ、彼を下から見つめる。警察は後ろからにじりよる。結果彼は飛び降りるが、生き残り救急車で送られる。その救急車のサイレンに彼は「虹の彼方に」の続きを思い出す。

 そんな安いジョークだが、ここにアリーは自分を見出すのだ。社会に順応できない自分をジョークの主人公に投影して、"ここ"から抜け出し,自分を認めてくれるところに行こうと決意するのだ。自己と社会の隔絶に病んでいた彼が答えを見つける。この人物との会話は彼の指針を定め、希望に満ちた理想の行く末を暗示しているようだ。"漂流"が終わり、ついに真の"旅"に出るのだ。

 しかし待ってほしい。アリーがジョークの主人公に投影した自分、それは彼の理想や憧れから来る理想像である。自己陶酔した結果の"みんなとは違う自分"なのだ。彼はこのことをきっかけにニューヨークを旅立つ決心をするのだが、ほんとに彼はニューヨークを出てその孤独だったり疎外感を埋められるのだろうか。その後すぐに出会うサックス吹きが最初の数音だけ「虹の彼方」に似ている「Somewhere」を吹くことも映画的に不穏さを演出し、非常な現実を暗示しているように思う。

 

 

このジョークを語る黒人との出会いが彼にとっての理想の未来を暗示するならば、「パリから来た男」は彼に現実を示している。

 

 ニューヨークを旅立つことを決意したアリーは手すりに寄りかかり、海を眺めながら船出を待っている。そこに同じように澄ました顔で寄りかかり、海を眺める男がいた。

彼に話しかけてみると彼はパリを飛び出しニューヨークに今到着したそうだ。渡航の理由はゴタゴタから逃げるためだ。彼は残した友人たちは泣くだろうと言う。アリーは旅立つ前に居れたダイヤ型のタトゥーを見せる。男も「ママ」と彫られたタトゥーを見せる。そして二人は入れ違いになるように別れていく。

 この男は彼の正反対の存在である。アリーは彼のように飛び出す明確な理由がない。そしてこの映画では、彼の旅立ちを泣いてくれるような人の気配が全くない。部屋にいた彼女は果たして泣いてくれるだろうか。部屋に帰った夜、そこにいないのが愛想をつかされた証拠ではないか。そして、母親を置いていくアリーが何の意味もないタトゥーを掘っているのも決定的だ。

 このように彼は主人公アリーの対照的な存在として描かれており、アリーの行いの空虚さを提示しているのだ。そして、追い打ちをかけるようにフェリーでスタッフロールと共に流れるのは「虹の彼方に」のワンフレーズ。フェリーのこの旅を屋根から飛び降りたジョークの主人公重ねて終わる。主人公は彼が、自分の合わせ鏡だとを気づかず、ましてそんな劇伴が流れるとも知らず、ニューヨークを後にする。この結末が彼の行為、引いては若者の膨れ上がった自己から来る愚行を暗示している。

 

 若人の魂への敬意と賛歌

 若者の持つ虚栄心や自己陶酔、そして希望や現実、そういった若者を構成する要素をありったけつぎ込んだのが今作だ。ほかにも多くの場面が象徴的に暗示しているが、それはキリがないので省略したい。

 これだけ彼を"等身大の若者"として描き、その若人の愚かさを語る本作だが、そこに監督の悪意はない。むしろこの愚かさを監督は今作を通して肯定しているように思う。アリーの持つ自己陶酔や孤独感は彼だけのものじゃなく、若者全てに共通することだと言えるはずだ。彼の愚かさは若さゆえの可能性と表裏一体でもある。そこには「若気の至り」への大いなる賛歌があるのだ。

 だからこそ今作を一言で表すならば、「ティーンエイジスピリットへの敬意と賛歌」だと私は感じた。

 

最後に

 最初にも言ったように今作は捉えどころがない作品だ。だからこそ観客が補足し、想像して如何様にも捉えられる作品になっている。だから正直、この記事の解釈に精度を求めてはいけない。これは筆者であるArchがジム・ジャームッシュのメッセージをこう解釈して受け取ったというだけに過ぎない。

 実はジム・ジャームッシュ監督は卒業制作である今作に最終学期の学費をつぎ込んだせいで卒業しそこなっているという過去がある。デビュー作とは得てして監督そのものを色濃く反映するもので、まさに彼の生き方、人間性がアリーの人間性や予想される末路に重なっているようにも思う。だからあながち解釈に間違いはないと思っている。

 批評とは新たな見地を与える面白い読み物であるべきだと思っている。是非これを読んだ人にとって鬼才ジム・ジャームッシュ監督のデビュー作をさらに楽しむきっかけになってくれると幸いだ。

 

 Arch