劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

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『静謐と夕暮』日常と記憶、そして他者 劇場映画批評第30回

 

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題名:『静謐と夕暮』
製作国:日本
監督:梅村和史監督
公開年:2022年

 

目次

 

あらすじ

写真家の男が川辺を歩いていると、川のほとりで衰弱している老人に、何やら原稿の束を渡している女性の姿を目にする。翌日、再び男がその場所に行くと、その原稿を読んでいる人々がいた。そこには、原稿を老人に渡した女性が書いたと思われる、この川辺の街での日常がしたためられていた。一方、ある日いつものように川辺にやってきた女は、見知らぬ黄色い自転車と川辺に座る男の姿を見る。数日後、男がアパートの隣室に引っ越してきて、女の部屋に夜な夜な男が弾いているらしいピアノの音が聞こえてくるようになる。男の生態が気になった女は、黄色の自転車に乗っていく彼の後をつけていくことにするが……。

引用元:

https://mitei10kisei.wixsite.com/silence-sunset-jp/story-1

 

静謐

静謐という言葉の意味を調べると「静かで安らかなこと。世の中が穏やかに治まること。太平。」と出てくる。

何気ない日常の風景をフィクスショットで捉えた映像、夏の情景を補強する静寂と環境音。それらの映像と音響が、一言も言葉を発しない主人公カゲのいる世界を"静謐"なものとして構築していて、冒頭数分のイメージだけでいえば、タイトル通りだと言える。
だが決して彼女の日常は、静かで安らかではなく、穏やかには出来ていない。
同じ場所、同じ画角で微動だにしないフィクスショットの反復は"変わらない日常"という概念そのものをカメラに収める。その感触はある種のタイムリープものに似ていて、変わらない日常から抜け出せない恐怖を内包してはいまいか。
 
また彼女の日常を捉えたショットの他に、"記憶"と思わしき父と子の戯れるシーンが挿入されるのだが、非常に奇妙な感覚に襲われる。常に彼女を追うショットの中に紛れ込むその"記憶"のシーンは、現実との境界線を曖昧に挿入され、彼女自身の"記憶"だと判別するは大分後の方であった。全体的にどこか突き放した印象を受ける演出ばかりの中で、記憶のシーンは彼女の回想としての役割を担い、彼女の心理を描いている点で特異だ。度々挿入されることで、大切な"記憶"として反芻し、忘れまいとしているかが窺える。彼女を内外から捉えた正反対の視点と、それら視点が同居して現実と記憶が曖昧に融合する様は奇妙という他ない。(記憶の子供は非常に男の子のように描写されていて、それも判別が遅れた原因であった。これは不確かだが、もしかしたらTS 的なニュアンスもあったのかもしれない)
 
 
対して、今現在、一番忘れまいと記憶しようとしている黄色の自転車の男について。カゲが彼をどう思っていたかは描かれないが、恋心に近い何かだったのではないだろうか。カゲと黄色の自転車の男について描写されるのは、手紙を交換しているシーンとカゲが彼の後姿を遠巻きに見つめているシーン。絶対に触れられず、言葉も交わせないこの"不可侵の距離"を保ってカゲは黄色の自転車の男と繋がりを構築する。そして遂にカゲにとって彼は絶対に理解できない他者のまま、自殺してしまう。理由は明確にはされないが、自分にはこの繰り返される日常に殺されたようにしか思えなかった。
 
 
 
このカゲと"不可侵の距離"を維持し、「他者」であり続けた黄色の自転車の男の関係は、観客とカゲの関係と近似している。
一言も喋らないカゲは何を考えているのかが分からない。言葉がなくとも理解できると人は言うかもしれない。だが、そんなのは妄言だと断ずるかのように、この映画では彼女のことが何一つ定かではない。言葉がなければ、相手を理解できない。そんな単純なことを思い知らされるようだった。
 
「カゲにとってこのただ繰り返される日常は"静謐"だったのだろうか。」
そして目前にあるカゲとの絶対に埋められない"不可侵の距離"に、その疑問すら打ち砕かれる。
 
 
この映画は、牧歌的な下町風景を捉えて"日常"を賛美しながらも、「真に他者との埋められない距離感を一貫して終始描いた作品」だと思っている。やりすぎなくらいに人が会話をしない、なんなら僅かに発生する言葉も(意図的なのか)聞き取れない。彼女の働き先の店主や客、誰とも会話をせず、存命だろう父も登場しない。
言葉も届かない穏やかで残酷な静寂が明確な映画の意思として断絶を引き起こし、我々観客とカゲ、カゲと黄色の自転車の男の間に"不可侵の距離"を用意する。だからこそ、部屋を空にして出ていったカゲの不穏さに、黄色の自転車の男の末路を予感させながらも、ただの一つも確実な心情を汲み取れない。画面の向こうの他者なのだから。
 

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夕暮

これらの理由があり、数多の映画が切り取ってきた美しき”日常”を、この映画は他者との埋められない"不可侵の距離"を通して非常に残酷に捉えた鋭利な映画として傑作だと私は感じた。これは大体、カゲが家を空にして出たシーンでの感想である。
 
だがその時点では、この映画のタイトルにもある"夕暮"は一切映し出されていなかった。何度も朝と夜を迎え、一日のサイクルを描いたのだから当然あっただろう"夕暮"は意図的に映されず、"夕暮"は満を持して映画のラストに用意されている。このラストの流れこそが本作の白眉だ。
 
ラストでは突如登場した男子高校生が友人に殴られ、打ちひしがれている様子が描かれる。家を完全に空けて出てきただろうカゲがその少年を目撃する。それは川辺の老人にとある原稿を渡した後、老人に貰った魚と同じ種類の魚を買ったばかりのタイミングだった。
すると、彼女は突然、少年に向かって走りだす。これまで印象的に使われてきた自転車とは違い、その様は強い意思を感じさせる。
少年の姿に黄色の自転車の男の姿を重ねたのかもしれない。だが結局のところ少年に何を想ったのか、なぜ寄り添うと思ったのかは分からない。我々観客は彼女にとっての"他者"なのだから分かるはずもなく、同時にそれは彼女にとっての少年も他者であるはずだ。
だが、彼女の姿には静かだが、少年を救おうという直情が感じられる。彼女が沈黙を破ることは結局最後まで決してなかったが、その代弁として彼女は魚を彼に渡す。
 
彼女は思ったのだろう。自分が川辺の老人にどこか救われていたように、自分も誰かを救えるのではないかと。"他人"というものを静謐を以って残酷に描き続け、不理解について説いてきたこの映画は、最後にその不理解を生む"不可侵の距離"をカゲの走り出す姿で見事に侵犯するのだ。
相手の事情を知らないからといって何も出来ないわけではなく、もしかしたらその行動が彼を救えるのかもしれないという希望に満ちた行動原理は、意図せず"他者"である川辺の老人から伝播してきたものだ。
自分と他者、これまでは絶望的に描かれてきた関係は奇しくもラスト数分で、希望を見せ始める。
ダメ押しとして漸く、"夕暮"の様子が描かれる。少年は多分、父親だろう大人と魚を持って歩き出す。その歩調は軽やか。そこに父親が手に持っていたラジオから音声が流れてくる。通信ノイズが酷いが次第に明らかに聞こえ始め、遂に聞こえてくるのは、我々が知っている物語だった。これまで我々が観てきた主人公カゲの物語である。
作中で主人公が毎日キュウリご飯を食べながら書き溜めてきた原稿が、川辺のおじさんの許から離れ、なんの偶然か、ラジオで朗読されているのだ。
そこに綴られているのは、彼女の日常を書き起こした原稿をベースに、拾った誰かが書き足した文章であった。
それは本作で一度も言葉を発しなかった唯一確かな彼女の言葉だ。
彼女が言葉にしたのは、日常の記録。変わり映えのしない日常の中で忘れてしまいそうな出来事の全て。川辺の老人も自殺した男も、居酒屋であった女性の話も全て書いてあったに違いない。その文章の名前こそ『静謐と夕暮』だったのだから。
彼女は日常を記録していたという事実はこの映画が、坦々と捉えてきた全てにカゲの日常の記録としての意味が付与される。多分、始まりは黄色の自転車の男が落としたくしゃくしゃの7000円。そのかけがえのない事を忘れたくないから記録する、記憶する。その衝動は監督が本作を作った衝動そのものだと入場者に配られた監督の手紙からも連想される。カゲにとっての『静謐と夕暮』、梅村和史にとっての『静謐と夕暮』は重なっているのだ。
 
 
最後に
この映画は梅村和史監督の初監督作品である。拙い部分も確かに感じられるし、言葉足らずの静寂さに寝てしまう人もいるはずだ。だが、そんな拙さも言葉足らずな所も含めて、誠実に他者を描こうとする様が見えたのだ。
日常と記憶、この映画の大切なファクターだろう。自分はそこに"他者"を加えるべきだと思わずにはいられないのだ。