劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

MENU

映画批評『ムーラン・ルージュ』-過去の持つフィクション性-

題名:『ムーラン・ルージュ』
製作国:アメリカ

監督:バズ・ラーマン監督

脚本:バズ・ラーマン、クレイグ・ピアース

音楽:クレイグ・アームストロング

撮影:ドナルド・マカルパイン

美術:Annie Beauchamp,Ian Gracie
公開年:2001年

製作年:2001年

 

目次

 

あらすじ

1899年、夜のパリに瞬く魅惑のナイトクラブ“ムーラン・ルージュ”。その華麗なショーは人々を魅了したが、実のところセットにカネをかけすぎ経営は火の車。オーナーのジドラーは、資産家の公爵に新しいショーの主役サティーンをあてがうことで投資を引き出そうと考えていた。本格的な女優を目指していたサティーンもパトロンを必要としておりジドラーの申し出に不満はない。しかしサティーンは青年舞台作家クリスチャンをパトロンと勘違いしてしまい、それがきっかけで二人は愛し合うようになってしまう……。

引用元:

movies.yahoo.co.jp

※以降ネタバレあり

「過去(現実)をフィクションとして昇華する」行為

特殊撮影と豪華絢爛な舞台によってまるでアトラクションに乗っているかのように進んでいくライド型ミュージカルムービーであった。

この映画の異質さはまず音楽にある。20世紀初頭1899年のムーラン・ルージュを舞台にしているにもかかわらず作中で歌われるのは、1970年代頃のポップスを多用したメドレーであること。エルトン・ジョンからビートルズ、デヴィット・ボーイにニルヴァーナとそのジャンルと年代のスパンは凄まじく、「知名度の高い曲」という大雑把な共通項しか見当たらない選曲ともいえる。それら楽曲のアレンジも1つの魅力であるが、自分はその時代感を敢えて歪めた選曲はクリスチャン(ユアン)視点で、「今から観た過去」として語られる本作の構造に起因していると感じた。

「今から観た過去」は得てして「過去(現実)をフィクションとして昇華する」行為となりうる。語り手によるバイアスや現在と過去に大きな隔たりがもたらす事実の無意識の曲解、それらが過去をノンフィクションとして語ることを許しはしない。言ってしまえば、過去とはフィクションなのだ。

ユアンが自身の悲劇を物語するという行為や、正しく映画という媒体が、過去のフィクション化する行為と密接である訳だが、観客が本作に感じただろう音楽的、またライド的な映画の異質さは「過去(現実)をフィクションとして昇華する」ことによって起こる歪みに起因し、それを映画表現のカリカチュアとして納得するのは無理もない話だ。
冒頭にも書いたライド感(感じた歪みと同義)は当時の流行りといえるVFXを用いた特殊撮影により、距離感やスケールが歪められたカメラワークによって、コンパクトに画面に収まっている印象から来る。またカット割りが非常に細かく、カットバックも多用されることで時間すらも歪められ、否応もなく編集された映像であることを強く感じさせる。
これらの映画的な表現によって過去が改ざんされフィクションに昇華されることが、この映画では、自覚的かつカリカチュアされているため、歪かつ美しい映画となっているのだ。

 

映画に殺された

愛についての物語は、サティーンの死を物語にすることによって、永遠に生き続ける物語となって終わる。しかし果たしてこの映画に結核という病気の要素って必要だったのかなと疑問が残る。物語は公爵とクリスチャン、サティーンによって構成され、その顛末があればこの映画は成り立っていたはずだ。そのためか、この本当にちょうどいいタイミングで症状が出て、最高のタイミングで病死する展開にすら、カリカチュアされた映画表現というものを自分は感じる。ただ脚本やら監督にとってのご都合展開、つまりちょっと粗のある脚本であるだけの話ではあるのだろうが、構造的な読み解き、映画構造に自覚的な映画に思えた私は、彼女は、愛というものを永遠にしようするあまりに映画に殺されたように思えたのだ(意味不明に聞こえるけど)