劇場で観た作品を"ネタバレなし、短め"に、
私立探偵が街の闇へ潜り込むが如く批評する劇場批評回「劇場から失踪」第7回
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障害を抱え,引き替えに驚異の記憶力を持つ私立探偵ライオネル・エスログは
自分の孤児院から救い出してくれた恩人フランクが何故殺されたのか、事件の真相を追う。
ジャズミュージックが物語と彼の心象風景を奏でながら,ニューヨークの闇に呑まれていく純黒のシネマノワール。
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目次
エドワード・ノートンのための映画
今回紹介するのは「マザーレス・ブルックリン」。
今作、まず驚くのが監督、脚本、主演をエドワード・ノートンが担っているということ。やはりというか遂にというか、彼ならいつかはやると思っている人も居ただろう。
2000年に「僕のアナ・バナナ」で監督して以来、監督作は二作目である。
監督、役者等の兼業といえば、クリント・イーストウッドなんかが挙げられると思いますが、しかし、クリント・イーストウッドの監督と主人公の兼業とは違うニュアンスがある。
もっと独自性というか趣味全開で"ノートン"そのものを体現している。そんな印象をこの作品からは受けた。
この作品を紹介するにあたって企画の始まりは20年前に遡る必要がある。
今から約20年前、ジョナサン・レセム原作の「Motherless Brooklyn」に惚れ込んだノートンは出版される前にその原作の映画化権を買い取る。
何故そこから20年も年月が掛かったか。それは原作を脚本とする際に大きな改変を行ったからだそう。
何処をどう変えたのかというと、例えば、原作が1999年の当時の現代劇だったのに対し、第二次世界大戦後すぐの"1950年代のニューヨーク"へと時代を変えたそうだ。
この時代の大きな変更は、ノートンが1950年代のニューヨークに長いこと惹かれていてのことで、完全にノートンの趣味によるものであるそう。
それにより原作とは大きく違ったものとなっていて,原作本来のテーマ等が反映されているか定かではない。
しかし、原作者も「ライオネル(※ノートン演じる主人公)を,次の探偵の冒険に送りだそう」と語っていて,20年という月日を掛けることで、エドワード・ノートンによる新たな『マザーレス・ブルックリン』を作り上げた。
ここまで脚本について触れてきたが,今作が監督,主演も兼任,そして自分仕様の脚本を用意したというノートンこだわりの作品であると分かったはずだ。
それは過去作のどれよりもは彼という役者の魅力を惹き出すため作られている,彼が彼のために作り上げた一作であるということ。
そしてそれをもっと突き詰めると
彼が映画の持つあらゆる要素のうち、何を愛して俳優をやっているのか。
彼にとって"映画とは何か"という、彼の俳優への向き合いかたが如実に表れている作品であるといえるのだ。
1950年代のニューヨークの闇
1950年代のニューヨークを舞台にした今作は1970年代に描かれた「チャイナタウン」や「フレンチ・コネクション」に代表される探偵、刑事物の系譜を継いでいる。
いわゆる"シネマノワール"とされる陰鬱な空気の中、暴力や差別が色濃く反映されている。そこに主人公ライオネルの青臭さや正義感が際立つという仕組み。
それにより重厚にして、濃厚、哀愁も漂う甘美な私立探偵映画に仕上がっているのです。
1950年代のニューヨークは前述通りノートンが愛した時代だ。
その当時のニューヨークは第二次世界大戦直後で世界が綺麗に2分されている時代だ。つまり"強者"と"弱者"だ。
それは国単位だけでなく、国内でも別れている。ニューヨークにおいては強者は権力を振るう有力者達。弱者はスラムに住む住人達、そして差別を受ける黒人達だ。
そして強者達は街の浄化と言って自分たちの利権のため、スラムを排除すると宣言する。
そこに弱者への配慮はなく、十分な手当はなく、ただ住むところを奪われる。当時実際にあったニューヨークの闇、それをノートンは描きたかったのだ。
しかしながら古き良き作風を踏襲しながらも、今作は新しくもある。
多用される一人称視点などのカメラワークは現代風だ。それに加えて主人公の苦痛の象徴であるその設定は現代だからこそ、私立探偵小説において主役になりうるのだ。
最後に
ノートンによるノートンのためのノートンにしか作れない作品。
ノートンの1950年代のニューヨークへの郷愁や憧れ、全編に流れる印象的なジャズミュージック等の私的趣向がダダ漏れな一作であり、彼の映画愛が沢山詰まった彼のフィルモグラフィーのある1つの到達点ともいえる傑作であると言えます。