劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

『ものすごくうるさくてありえないほど近い』-喪失とどう向き合うか-

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この作品は葬式のシーンから始まる。アメリカの一般的な様式に即し、身を黒に包み、棺の前で喪に服す。しかしその棺は空っぽだ。
主人公オスカーには車の中から見える大人が空の棺で葬式を行っているその光景が理解できない。まるでお葬式ごっこだと祖母に愚痴る。祖母は「やることが大事だ」と諭すが、しかしオスカーには納得が出来ず、車から降り、その場を逃げ出してしまう。

葬式は死者のためではなく、残された者のために行われる。喪失による痛みを和らげ、大切な人を失った人生を再構築し始めるきっかけをとなる祭事である。

しかしオスカーにとって葬式はその意味を持たなかった。この最初のシーンが父の死に向き合うことが出来ない少年の物語を象徴づけている。

どう父を失うという喪失と向き合っていくのか。この映画はオスカーが父の喪失を乗り越えるまでの物語だ。

 


アメリカ同時多発テロ事件により父親を失った少年オスカー。父を失ってから1年、その喪失に向き合えない彼はクローゼットで落ちた青い花瓶の中に"Black"と書かれた封筒とその中の鍵を見つける。
ここからオスカーの鍵を巡る旅が始まる。父親と生前にやっていた「調査探検」のように。
オスカーにとってこの旅は喪失からの逃避としての意味しか持たなかった。喪失に向き合うためじゃなく、ずっと父のことを忘れないように、という現実逃避から始まる旅。

「太陽が爆発しても、8分間僕らは何も知らない。僕はパパとの8分間が消えていく気がした」

オスカーはこの独り言のシーンがそれを物語っている。

大切なものを失ったとき、どうその後を生きるか。多様な選択肢があれど、結局は喪失を認めて受け入れるしかないのである。
本来オスカーのような現実逃避の先には更なる喪失が待っているものである。現に鍵の正体は父親が遺品セールで偶然手に入れただけのものであり、それは持ち主の喪失を癒してもオスカーの喪失を癒すことはなかった。

しかしその調査の旅は無駄ではなかった。
「天才スピヴェット」のスピヴェット少年が旅の中の出会いで成長したように、オスカーはニューヨーク5区を舞台に旅して色んな人に会う。
自分と同じように"喪失"を持つ人達や自分を想っていくれる人達。作中の人々のほとんどがオスカーを歓迎していく。その暖かい出会いは"逃避の旅"を"再生の旅"へ変えていく。

調査探検が徒労に終わり、オスカーは更なる喪失に陥る。しかし、そこである事実を知る。

それは母が自分を見守っていたこと。これまで出会った人達を先回りして会っていたという事実。
「私があなたから目を離すと思う?」

この言葉が母が自分を愛しているということに気づかせてくれたのだ。

 オスカーは作中度々自分の隠してた秘密をぶちまけることがよくあった。祖父や鍵の持ち主だったり。本来これらの話は母親が聞くべきことであった。しかし、一年もの間、母親に告げることが出来なかった。受け入れようとする人たちとの疎外感、それが母との間に壁をつくっていた。


この物語は父の喪失の側面としての物語であると同時に、これは母親との再生の物語でもあったのだ。

ここで初めてこの喪失は自分だけのものじゃなく、誰かと共有できるものだと気が付いたのだ。そしてようやく喪失と向き合えるようになったのだ。

映画の最後、父との果たせなかった「調査探検」、セントラルパークのブランコで父が残したメモをみつける。

「おめでとう、第6区の存在と自分の素晴らしさを証明した」


ここからまた彼の人生は始まるのだ。

 

9.11を経て喪失を抱えた人たちに贈る再生の物語。この作品はその悲しみは誰かと共有できる、助け合えるものだという希望を照らし出してくれる。