題名:『ケイコ 目を澄ませて』
製作国:日本
監督:三宅唱監督
脚本:三宅唱 酒井雅秋
撮影:月永雄太
美術:井上心平
公開年:2022年
製作年:2022年
目次
あらすじ
生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコは、再開発が進む下町の小さなボクシングジムで鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。嘘がつけず愛想笑いも苦手な彼女には悩みが尽きず、言葉にできない思いが心の中に溜まっていく。ジムの会長宛てに休会を願う手紙を綴るも、出すことができない。そんなある日、ケイコはジムが閉鎖されることを知る
引用元:
※以降ネタバレあり
今回紹介するのは、『君の鳥はうたえる』の三宅唱監督の最新作、『ケイコ 目を澄まして』である。邦画の中でもボクシングムービーは傑作率が高く、非常に楽しみにしていたが、予想を大きく超える大傑作であった。監督への信頼は元から厚く、主演は大好きな岸井ゆきの、ハードルは高かったはず。それでも軽く乗り越えていった。
それでは早速語っていこう。
何も聴こえないを想像する
聴覚障害を抱える人を題材とした作品と言えば『サウンドオブメタル』や『Coda』等の作品を思い出す。どれも紛れもない名作だ。二作品に共通している演出であり、自分が作品を傑作にしていると思ったのは「何も聴こえない」という"体験"を映画から音を消すことで効果的に創出したことである。
各作品で使い所違えど胸に締め付けるその描写は、映画を通して彼らの世界を"体験"することを手助けし、「知らない世界を体験させる」という映画の存在意義を体現していた。
だが本作は上記の二作品と違い、映画から音を消さない。劇場に静けさを生み出し、映画的なエモーションを作り出さない。
なぜなのかと考えた時、自分は本作が「何も聴こえない」を"想像"させる手段を取っている作品だからだと考えた。上記二作品が"体験"させたのに対して、本作は"想像"させる。
例えるなら、作品の被写体(テーマ)に対して、横に立って「同じ方向を見る」ことと、正面に立ち「見つめ合う」ことぐらいには相反するポジショニングだろう。
決して上記二作品を劣っているとか、スタンスに問題があると言っている訳ではない。ただ本作の「被写体を被写体のままでおこうとする距離感」に、本作の意図するところ、つまり魅力が詰まっていると感じたのだ。
その距離感を感じさせる演出はケイコ以外にだけ「音」を聴かせることによって成立する。彼女の日常を朝昼夜と途切れることなく追う中で、彼女の「聴こえない音」は観客にだけ伝わってくる。電車が走る音、車の音といった生活雑音、フットワークの中で鳴る足音やミットを打つ音、また我々が聞こえないなら聞こえなくていいような罵声やノイズも彼女には等しく聴こえない。
そういった日常が流れていく中で、我々は彼女の「聴こえない世界」を"想像"する。夜の高架線下、電車が通りすぎる中で彼女が感じるのは、音ではなく「光」なのだろう。光が緩い法則性で周囲を照らす。詩的に言えば"光が踊っている"かのようにケイコには見えるのではないだろうか。
そんな風にケイコの世界は、我々の能動的な想像によってしか垣間見えることない。なんとシビアで曖昧模糊な感じ方なのだろう。しかしそれは、ケイコと"世界"の現実的な関係なのだ。
肌寒い世界
あの映画で描かれた世界は、彼女にとって耐えようのない地獄だったと感じる観客はいないだろう。彼女を差別し、苦しい生活を強いる悪意に満ちた世界だと感じる観客はまずいない。
それどころかあの映画には暖かなコミュニケーションが描かれていて、「優しい世界」になっている。
特にボクシングジムの面々や、自宅にいる彼氏やらその女友達とかの歩み寄る、彼女と自然に同じ時間を共にしている姿には心暖まる。
だがあの世界には形容しがたい肌寒さがある。どう足掻いても当事者にはなれないから生まれる溝、埋めがたい個と個の隙間の領域が、その肌寒さを生んでいる気がする。部屋に帰るとギターを弾き、何かしらの創作活動をする二人。悪いはないのは分かるが、どうしてもそれを共有できないという事実。コンビニでのくだりもそうだろう。またボクシングにおいても彼女の抱えるハンデは計り知れない。
特に自分が思わず食らったのは、ケイコが有する①唇を読む、②筆記文字を読む③手話の三つのコミュニケーション手段の描き方だ。①②③と彼女への情報の入りやすさは深くなっていくと勝手に思っているが、大切な情報であればあるほど、①の手段でケイコに伝えられる。
それは様々な兼ね合いがあると分かりつつも、少しケイコに"優しくない"世界の存在感を強めることになる。些細なその描き方が、高い解像度でケイコの世界を演出している。
それらの巧みな演出によって、この世界の肌寒さは作られている。
体験するのではなく、想像する手段によって本作はケイコという被写体に向き合う。その距離感、肌寒さによってケイコの生きる、そして闘う世界は構築されているのだ。
模倣して反復、その繰り返し
ここまではケイコを取り巻く世界の話、ここからはケイコがどうその世界を生きるのか、そして世界とどう接点を見出しているかの話をしたい。
先程も述べたように本作において、音は重要な要素である。観客には聞こえる、ケイコには聴こえない。それが重要だった。だが彼女は彼女の方法で音の代わりに何かを感じようとする。それが題にもあるように"目"をひたすら見ることだ。ただ見るのではなく、動きを模倣して反芻して繰り返す。音ではなく体を伝わる衝撃でリズムを感じてテンポを合わせ、タイミングを見計らう。
それを毎日繰り返す。体にその動きが馴染むように、何度も繰り返すのだ。それはボクシングという競技な性質から来るものでありながら、彼女がただひたすら言語の代わりに、世界や他者と接続する方法として行われる。
ボクシングのミット打ちを何度も重ねることで次第に動きがスムーズになっていくように、また鏡の前で隣の人の動きを真似しながらスパーリングするように、はたまた友人の踊りを遊びで真似するように。
そうやって何度も何度も模倣して反芻して繰り返す。そうすることで"リズム"という形でその人や世界との接続点を見つけている。そのために"目を澄ます"必要があり、それが彼女の生き方で、ボクシングをやる理由なのだ。
そのルーティンの繰り返しは人生そのものだ。人生は減衰していずれ消滅する螺旋のようなもので、繰り返すことで積み重ねられながらも収束点が存在する儚いものだ。
だからこそケイコはその螺旋に対して習慣という同じ方法を武器にして生きるのだ。端的に表しているのは、新しいジムの話が出たところ。あれは彼女のわがままというよりも彼女の境遇ゆえに新しい場所、或いは遠いところにルーティンを壊して行くことのリスクが大きいからこそではないだろうか?
それだけ彼女にとって繰り返しの中で生きることは大事で、そうやってケイコは健気ながら勇ましく世界と接続しようとする。
最後のシーンは、まるでそのルーティンの軌道上に再び乗るかの如く、道に駆け上がり、走り出す。
ボクシングジムが消え、三浦友和演じる笹木も病に倒れてしまう。世の中は減衰して行くのを肌で感じる、それでも彼女は再び"繰り返し"に戻っていくのだ。それが彼女の生き方、そして闘い方なのだ。