劇場からの失踪

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映画批評『ジュラシックワールド』-インドミナスレックスの悲哀-

題名:『ジュラシックワールド』
製作国:アメリカ

監督:コリン・トレボロウ監督

脚本:コリン・トレボロウ

音楽:マイケル・ジアッチーノ

撮影:ジョン・シュワルツマン

公開年:2015年

製作年:2015年

 

目次

 

あらすじ

事故の起こった「ジュラシック・パーク」にかわり、新たにオープンした「ジュラシック・ワールド」では、ジャイロスフィアという球体の乗り物でめぐる恐竜見学や、モササウルスの水中ショーなどで人気を博していた。さらなる人気を獲得したい責任者のクレアは、飼育係オーウェンの警告も聞かず、遺伝子操作により、凶暴で高い知性をもった新種の恐竜インドミナス・レックスを作り出すが……。

引用元:

eiga.com

今回紹介するのは2015年公開の『ジュラシック・ワールド』である。スピルバーグ監督の手掛けた『ジュラシックパーク』シリーズの正当続編として始まったシリーズの第一作である。新作に向けて久しぶりの鑑賞をしたので少し書いていこう。

 

※以降ネタバレあり

 

夢のあるパーク

前作シリーズの『ジュラシックパーク』でとことん恐竜のコントロールの不可能さは描かれていたのに、人の欲望と愚かさは留まることを知らず、ついに「ジュラシックパーク」は開園してしまう。

本作、なんと言っても夢のあるパークとしての説得力があるのがいい。ハモンドの実現しようとしていた夢がしっかり提示されて、「行ってみたい」と思わされる描写があるからこそ、その後の必然的な崩壊がより凄惨なものになる

必然的な崩壊は常にヒューマンエラーに宿る。というか今回は、特にインジェン社のガバガバ管理体制が露呈して、開いた口が塞がらない。前作ではそのせいで末端の社員が痛い目にあっていたが、今回はCEOが自らの愚かな行動を以て犠牲になってくれたので溜飲は下がるのは良改変の部分だろう。

 

インドミナスレックスの悲哀

ジュラシックパークのシリーズは常に自然をコントロールできると考える人間の傲慢さをあぶり出し、そして同時に人と恐竜の共通点を「家族」や「親子」という関係に見出してきたシリーズだ。ジュラシックワールドでは、そこに恐竜の「クローン」としての側面を強調し、「そもそも生物とは?」の領域に踏み込んでいく。インドミナスレックスは「恐竜でないモンスター」として描写されていく。一作目では「生物」としての恐竜を印象づけたブラキオサウルスがインドミナスレックスに凄惨に殺される様がまさにそれだ。特にクライマックスでは分かりやすい善悪に近い対立関係が持ち込まれ、インドミナスレックスは「悪役」のようだった。
確かにこの場面は1作目から印象的なTレックスが"仲間"になったかのような錯覚がカタルシスを生むシーンではあり、最初は興奮した。
ただこのシリーズの原点である「恐竜を怪獣ではなく生物として描く」ことに立ち返るならこの描写は後退のように感じる。それは『ジュラシックパーク3』で見られたギミックと化した恐竜の姿。ただ本作においてこの描写はインドミナスレックスの悲哀を描く上で、大いに機能する
最後のあの三竦みが一転してインドミナスレックスに集中していく流れは、言わば「生物と作られた生物(クローン)」の対立があるからこそといえる。本来恐竜同士があんな形で協力することはないはず、それでも「恐竜」という形で一緒くたにされてインドミナスレックスを殺したのは、インドミナスレックスが「恐竜ではない」からだ。インドミナスレックスが完全に孤立した人口生物、だからこそ誰とも連帯できない。あのシーンにはそんな悲哀があると思う。

 

最後に

ジュラシックパークにおいて家族というテーマは恐竜と人間が、唯一共有し共感できる部分として描かれ続ける。だが今回は主人公のオーウェンと子供達にそのような擬似家族的な絆は築かれない。その代わりにあるのが、ブルーとオーウェンの親子関係である。ついに人と恐竜の擬似家族について触れ始めたのだ。これがまさに本作の大事な部分で、ドミニオンでどうなるのかが気になる部分なのだ。