劇場からの失踪-映画批評ブログ

映画をこよなく愛するArchによる映画批評

『ジョーカー』-道化師の新たな狂気-

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“笑顔は人を幸せにする”なんて誰が言ったのだろうか。

この映画はそんな夢見がちな考えを”ひどいジョークだ”と笑い飛ばす。

これはJOKERという狂気に堕ちていくまでの人生劇。

As Life、これが人生・・・

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 目次

 

 

今回の作品は狂気の問題作「ジョーカー」です。 

監督はトッド・フィリップス。代表作はやはり「ハングオーバー」シリーズ。

ハングオーバーも一種の狂気をコメディに乗せて描いていて,今作に共通するところがありますね。
主演はホアキン・フェニックス。数多の作品でその演技の幅を広さを見せつけ、今作でも狂気に堕ちていくアーサー・フレックの複雑な感情を見事に演じ切っています。

彼のインタビューで「アーサーを”こういう人間だ”と決めつけずに流動的に複雑に演じた(意訳)」とおっしゃっていて、その演技論がアーサーの不安定な恐ろしさに繋がったのでしょう。

 

これまで名優がそれぞれの色で「ジョーカー」を演じてきており、コミックのキャラにおいてジョーカーほど多くの役者に演じられたキャラはいないのではないでしょうか?(対としてバットマンも相当数の役者さんが演じてますが)

ホアキンの演じるジョーカーはこれまでの名優に並ぶ新しいジョーカーの境地を見せています。(それが評価の分かれるところになると思いますが・・)

アーサーの憧れの存在、コメディーショーの人気司会者役としてロバート・デ・ニーロ。今作は多くの映画の引用をしていますが、特にマーティン・スコセッシ監督作「タクシードライバー」「キングオブコメディ」へのリスペクトが強く感じられます。この二作はどちらも主演がロバート・デ・ニーロ。「キングオブコメディ」に関してはコメディアンを狂気的なまでに目指す役柄で、今作でコメディアンになっている姿に色々想わせるような配役となっています。

 

 

あらすじ

鏡を前にピエロのメイクをするアーサー・フレック。指で口を吊り上げ、作り笑いをしている。アーサーは病気で介護の必要な母と二人で汚く狭い部屋で貧乏に暮らす。

夢は「コメディアン」になること。

しかし、才能はゼロ。それだけでなく、緊張すると笑いが止まらなくなる病気を持っているため、人とコミュニケーションを取る事もままならない。

 

そんな彼に人生の転機が訪れる。

ピエロに扮し仕事をする中、暴漢に襲われたことを知った同僚に身を守るために銃を渡される。そして後日再び暴力に晒されたアーサーは銃でその3人の証券マンを撃ち殺すのだ。何かの箍が外れたように彼は悪へと堕ちていく。

自分を開放していくアーサーはついに憧れのコメディー番組に出ることになる。コメディアンを目指す彼にとって夢の舞台、憧れの司会者。しかし、妄想の中で舞台に登場した彼とは違う。

幕が上がる。白塗りにメイクに真っ赤なスーツ。陶酔したような踊りとともにそこに居るのは紛れもないジョーカーの姿だった・・・

 

 

 

二通りの解釈

今作を評するにあたってこの映画の筋,ジャンルをどう解釈するかが重要になります。大きく分けると

「JOKER」というアメコミキャラのオリジンとして見るか.

アーサーという人間が狂い,ゴッサムの闇の象徴になる物語として見るか(コミックのJOKERとは関係のない物語)

となると思います。(前提としてトッド・フィリップスはあくまでジョーカーのオリジンとして描いているそう。)

 

 

「JOKER」というアメコミキャラのオリジンとして見るか.

先述もしましたが,多くの名優たちが演じてきたジョーカー。

すべてのジョーカーに共通するのは

 ・悪であること

 ・狂気の存在であること

 ・その口角を吊り上げた笑顔

などが挙げられると思います。

そして今回重要であるバックボーンがこれまで描かれていなかったということも共通する一つ。

バットマンが毎度オリジンである両親の死を描くのに対してジョーカーは描かれず、それこそが彼の狂気に不気味さをもたらしています。例えどんな悪行を為す者でも、その背景を知れば,感情が入る余地が存在してしまいます。ジョーカーはそれにはあてはまらないからこそ、数あるヴィランの中で確固たる位置についたのでしょう。

 

しかし・・今作「ジョーカー」では禁じ手であるジョーカーの誕生秘話(オリジン)を描いたのです。映画製作発表が決まった時点でオリジンを描くことをナンセンスとした不満の声は上がっていました。

公開した現在では、批判意見のひとつに悪の天才ジョーカーのオリジンに同情や共感があることを嘆いているものがありました。

その気持ちは最もです。

例えば、ヒース・レジャー演じる「ダークナイト」のジョーカー。

彼は特にバックボーンを感じさせないジョーカーで、悪の具現化,いわゆる人ではない化け物のようなものとして描かれていました。

何故化け物なのか,それは彼が人間的な欲求を見せず、人に感じる同情などの感情を抱かせないからです。

しかしこのジョーカーに実は病気の母が居て看病しているなどの設定があったらどうなってしまうのでしょうか。

我らの愛する悪のカリスマに同情を抱いてしまう、それは明らかな失敗といえます。

ジョーカーは悪の上で後ろから突き堕とす存在で決して悪に堕ちていく存在ではないのです。もしホアキンジョーカーを最初に観て、その後ヒースやジャックのジョーカーを観た人たちはジョーカーを化け物として見れるのでしょうか?それこそ同情ものです。

 

ヒースやジャックのジョーカーに引っ張られてしまい、楽しめなかったのは仕方のないことでしょう。だからやはりホアキンジョーカーを全く別のジョーカーとしてみることがこの作品を楽しむコツであると思います。

 

ジョーカーのオリジンを描くうえでポイントとなる何故ピエロになったのか、あの特徴的な笑いの理由などを上手く描いているし、リアル路線の作品として地に足がついている理由付けです。

注意深く見れば歴代ジョーカーへのリスペクト,オマージュも散見されて(燃える街を車から見るシーン,カメラを鷲掴みし、画面いっぱいに顔を映すシーンなど)新たなるジョーカーのオリジンとしては素晴らしいものだったと思います。

 

アーサーという人間が狂い,ゴッサムの闇の象徴になる物語として見る

DC映画の枠を超え,コミック映画の外側の作品として見る。

コミック映画もここまで来たか!と感慨深さもありますが、実際元からコミック原作の強みなどを捨てている作品であると思います。

舞台設定やアーサーの境遇などがあまりに生々しい。

レトジョーカーの強みであるデフォルメ感,コミック特有の質感が全くないんですね。これはやはりバットマンの存在がないことに起因すると思います。「ダークナイト」もリアル路線ではありますが、コスプレしたヒーローの登場はやはりリアリティに"もや"を掛けています。

しかし、ヴィランがコスプレするならそうはならない、それを今作では証明しています。

 

 

ジョーカーではない、ならばどうアーサーを見るか。

それは社会からつま弾きにされた共感を呼ぶ可哀そうな男です。アーサーは貧乏で体が不自由な母と二人暮らし。コメディアンになりたいが才能はゼロ。友だちも恋人もいなく、緊張すると笑いだしてしまう神経系の病気を患っている。他にも色々な事象が彼を追い詰める訳ですが,これが観客に先ほど述べた「同情」、言い換えると「共感」を抱かせるのです。

この「共感」を感じさせるつくりが今作の強みです。

決して勘違いしてはいけないのが「理解」ではないということ。彼を理解できた気になることが恐ろしいことだと私は思います。(あそこまで絶望,不幸の臨界点のような人生をおくる人間ならば別でしょうが。)

観客はアーサーに自分の中の鬱屈した感情を見るのです。誰かに認めてもらいたいという承認欲求や現実逃避をするため、妄想をして自分を慰める様。それらのアーサーの行動に自分を重ねてしまう。

そしてアーサーはその絶望から解放されるように狂気に身を染める。作中の踊りの持つ優雅さようにその狂った姿は自由そのもので、美しさすらある。観る者はそこに圧倒的なカタルシスを感じてしまう。

この「共感」は観客のみならず、作中のゴッサムの底辺層の人々にも作用します。

3人の証券マンを銃殺する一件よりゴッサムの住民はピエロマスクの犯人に「共感」し、貯めこんだ不平不満を爆発させていきます。

そして後付け的ながらも、彼はゴッサムの闇の象徴として最後祭り上げられるのです。

このラスト、口内の血で紅を引くように笑顔を作り出すシーンの素晴らしさたることや。あのセンスゼロのコメディアン志望とは思えないオーディエンスへのサービスシーンでしたね。

 

話が大分散らばったように思いますが、私の結論としては「JOKERのオリジンとしては些かひっかかるため、アーサーという悲劇の男の物語と解釈すべきである」です。

JOKER=バックボーンがない、で浸透している中でオリジンを描くならば、コミックから遠い所で描こうとしたトッド・フィリップスの判断が正しかったと思います。

 

 

あくまで喜劇

今作ではアーサーに様々な不幸が降りかかります。正しく悲劇であります。しかし、作中アーサーが言うようにこの作品は「喜劇」です。

喜劇の王たるチャップリンの格言としてこういったものがあります。

 

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

人生は近くで見れば悲劇だが遠くからで見れば喜劇だ

 

どんなことも見方によって形相を変える、当事者とそれを対岸から見る人、現在と過去。色々な”距離”でこの言葉は当てはまると思います。

コメディ出身のトッドフィリップスはこの点を誰よりも理解して、この作品を「喜劇」として撮ったのだと思います。だからこそチャップリンの「モダンタイムス」の曲「Smile」を皮肉になるのを理解して流したのでしょう。

最後の精神病棟で追いかけっこをしているなか、「The end」の文字が出るシーン。

まるで「トムとジェリー」のような追いかけっこ(キングオブコメディのパロでもある)で終わらせる。燃える街中で車の上に立ち笑うシーンで終わらせるのも自分はありだと思うのですが、あの終わらせ方を選んだことにやはり「喜劇」であることを強調したかったのだと思います。

しかし、私は監督がどう思って撮ったかと観客がどう思ったかが一致する必要はないと思います。もしこの作品を「悲劇」と感じるならば、この作品を”近く”で観たということになるのでしょう。

 

名作からの引用

今作では分かりやすく多くの名作からの引用があります。ちょっと書き出してみましょう。

鏡に映る自分に話掛けるシーンや銃を家でいじるシーンは「タクシードライバー」。

ロバート・デ・ニーロがコメディアンであること、ラストの追いかけっこ、妄想で司会者と話す主人公、彼女の存在(これは一種のブラフに近かった)は「キングオブコメディ」。

さらに細かく言うとGary Glitter - Rock & Roll Part IIの流れる階段のシーンは「エクソシスト」の階段を連想します。

 

ここまでは多分どこでも言われているかと思いますが、自分的に頭をよぎったのは「バードマン」でした。

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バードマン、劇場公開時に字幕が黄色であったのが印象に残っていて、JOKERのタイトル、エンドタイトルが黄色の文字で出た時、頭をよぎりました。

字幕が黄色なのは国によっては珍しいことではなく、JOKERが意識した、なんてことは全くないのですが、よぎった瞬間からバードマンとの繋がりを連想してしまいました。

例えばバードマンがバットマンを意識したものであること。バードマンでもかつてバットマンを演じていたキートンを採用することで意識したつくりにしていたわけですが、バットマンのヴィランたるJOKERを描くのですから繋がりといえるでしょう。(まあ友達の友達ぐらいのつながりですが)

 またこの二作品に共通するのは狂気です。「どん底で終わるより、一夜の王でありたい」キングオブコメディの引用ですが、どん底に居たものが何かを為そうと内に狂気の覚悟を秘めて舞台袖で待つ。人生の晴れ舞台を前に拳銃を持ち、舞台に上がる姿は既視感を感じました。撃つ対象は全くの別の者ですが。妄想に捉われている姿も既視感があります。

 

まあバードマンはともかく今作は多くの引用を行い、特にスコセッシへのリスペクトを感じさせます。まあやりすぎて既視感でつまらなく感じたり、展開が読めたりすることもあるのでそこは気を付けてほしいですが。(逆に読めると思った展開を裏切ってくる憎い展開もあって上手く掌で踊らされた感はあります)

 

 

最後に

自分にしては大分長くつらつらと思ったことを書きましたが、これは『JOKER』が歴史に残る素晴らしい作品の証明であります。余談ではありますが、パンフを読む限り、トッドフィリップスが丁寧にまとめ上げ筋道を立てたストーリーをホアキンの演技が狂気のテイストに染めていった作品というイメージを持ちました。

そのおかげで社会や映画界にも波紋を及ぼす、近年まれにみる迫力とカオスを持った作品ではないでしょうか。なんとアメコミ映画では異例のV4だとか。続編があるとの噂もありますし気になりますね・・

 

ホアキン・フェニックス、これでアカデミー主演でノミネートされなきゃ、それこそ暴動起こしちゃうぞ♡