劇場からの失踪

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『ヒトラーの死体を奪え』歴史を作るのは生きた者の記憶 劇場映画批評107回 

題名:『ヒトラーの死体を奪え』
製作国:

監督:ベン・パーカー監督

脚本:ベン・パーカー

音楽:アレックス・バラノフスキ

撮影:レイン・コトブ

美術:ヤークップ・ルーメ
公開年:2023年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

1945年、陥落後のベルリン。ソ連軍の情報士官ブラナ・ブロスカヤ中尉らはスターリンから極秘指令を受け、ある木箱をモスクワまで運ぶ任務に就く。その木箱には、焼却されたはずのヒトラーの死体が入っていた。トラックでポーランドの森林地帯を抜けて東を目指すブラナたちだったが、ナチスの残党に襲撃され死体を奪われてしまう。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

 

ヒトラー(ナチス)は定期的にぶちのめして笑いものにすべきと考えているので、ヒトラーものは必ず劇場に行くことにしてる。
最近だと『ペルシャン・レッスン』や『アウシュビッツのチャンピオン』等が公開されている訳だが、その中でも本作は極めてよくできた作品だし、昨今またヒトラー信者が湧き出す中で、反ヒトラー反ナチスのメッセージとしてもかなり強火なのが最高である。

余計なドラマに踏み込まないタイトであろうとする構成

冒頭、一人のおばあちゃんがテレビを食い入るように見ている。テレビには1991年のソ連解体が報道されており、ゴルバチョフの辞任が報道される。そこにネオナチの男に家宅侵入してくる。危機的状況であるはずがしかしそんな男をおばあちゃんはスタンガンで難なく撃退する。
男の目的は、WWⅡ終戦時に、実はヒトラーは逃亡して生きていたのではという噂を聞きつけ、そのおばあちゃんが何かを知っているからだと考えたからだ。
しかし事実は異なる、と語り出すおばあちゃん。彼女はヒトラーの死体を運搬する士官の一人だったのだ…。
そんな感じで回想に入り、1945年戦争終結後の死体移送での戦闘がメインになっていく。映画全体として、非常に硬派な作りになっていて常に緊張感を帯びた作品になっており、戦争映画としても見応えがある。特に銃声の耳をつんざく音が凄く、最近観た映画の中でも迫力ある銃声だった気がした。(直前に観た『バンシー』がしょぼかったのもある)

女性であるブラナを中心に据えることで、戦争が如何に男性優位の世界が拡張された場であるかが浮き彫りにする構成、また幻覚症状を発生させる毒煙を利用した過去のフラッシュバックや恐怖演出がリアリティーラインを保ち、かつ余計なドラマに踏み込まないタイトであろうとする構成にぴったりハマっていて、アイデアとしても最高だった。
極めつけは室内戦の描き方で、目標が室外にある条件を上手く利用した戦闘の動機とアクションの動線が見事で、不発火炎瓶等も含めて芸が細かい。

 

「映画でヒトラーを殺す」

そういった細かい戦闘のディティールに驚かされながらも一番良かったのは、映画(フィルム)の使い方だ。
ナチス残党はヒトラーの死体を手に入れ、それを解剖して"本人ではない"と断定、映像に記録することでヒトラーを死んでいないとし、象徴として生き返らせようとする。
てっきり未体験ゾーン作品なので何かオカルトな儀式でもやるのかなと思ったのだが、そんなことはなかった。

現在においてヒトラーの影響力は消えていない。ヒトラーの生死を問わず、彼の象徴としての存在が未だ消えていないからだ。そのせいで多くのネオナチを生み出し、ファシストを作り出している。そんな現実を反映して、そういったヒトラーを"生かそう"とする人々のメタファーとしても本作のナチ残党は機能している。
彼らが"武器"として使ったのは、映像媒体、言ってしまえば映画(フィルム)である。かつてナチスが映画によるプロパガンダで情報操作を行っていた故の発想だ。
しかし本作はそのフィルムを焼くことで、ナチスやヒトラーの決定的な死を言い渡す。つまりそれはプロパガンダ映画を焼くことで「映画でヒトラーを殺す」話になっているのだ。『イングロリアス・バスターズ』に近い手法ながら、違うアプローチのその話に自分は強く感動した。

回想を終えると、老女の現在のシーンで語り追える姿が映る。最初のテレビを観ていた女の人とは別人、歴戦の戦士のように見てる彼女の貫禄を感じさせた。
彼女は言う、「歴史は勝者が作るのではなく、生きた者の記憶に残るのだ」と
つまりネオナチ共が「歴史は勝者が作る」と言って、敗者であるヒトラーの擁護しようとする動きに対して、「若造が何言ってんだよ こっちは生き字引なんだよ」と一蹴して見せたのだ。
今年一番カッコイイセリフだった。

大傑作。