劇場作品をネタバレ少な目で簡単に紹介する映画批評回「劇場からの失踪」第二回
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劇場を後にし、今駅のホームにいる。
ここには多くの人の営みがある。
その営みが、普段はなんでもない世界が、何だか眩く見える。
拳を握りしめ、空にかざしたくなるような、そんな映画。
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目次
主演は松岡穂香。日本の映画に疎く、少女漫画原作の大衆向けの陳腐な映画に出ているイメージでした。その想像は早々に覆りました。その儚げな表情は都会に出てきたばかりの田舎者の不安と怯えをひしひしと伝え、その存在感は映画の主演でありながらも凄く透明で、映画が進むとともに街に溶け込んでいくようでした。特に死んだお婆さんの死に顔を覗き込むシーンが美しい。「寝てるようにしか見えない」と呟き、死を前に、死を受け入れていく姿は作中最も美しいシーンに思えました。
言葉は心だから、心は光だから。
光。今作の大切な要素。光とは何か。
作中の台詞を引用するならば「形のあるものは姿を消してしまうけど言葉だけはずっと残る。言葉は心だから、心は光だから。」
今作の光は心だ。もっと突き詰めれば、人の生活や営み、人と人の間に溢れる暖かさこそが光なのだ。
主人公の彼女は上京先であまり口を開かない。それは自分を守るためであり、周りを恐れるからだ。形あるものとは違い、永遠に残るかもしれないものだからこそ、言葉の取り扱いは難しい。言葉の傷は一生残るかもしれないのだ。
だからこそ彼女はいい淀み、口を開かなかったのかもしれない。
しかし、彼女は上京してきたこの街に大切なものをみつけ始める。アーケードの住人達や親しくしてくれる人達。人の営みから生まれる光。人と人の間にある光。そういった眩い光に囲まれ、彼女は生きていこうと思っていくのだ。
今作彼女の日常を描く映像が綺麗なのは勿論だが、生活音の素晴らしさに注目したい。電車の通る音、食事中の咀嚼音、お湯に手をいれて掴むかのように動かす水の音。普段聞いていても、何も感じない音達が劇場を通して、美しいものとなり、聞こえてくる。そこに美しい下町の映像や日常風景が重なることで、観る者の郷愁を誘うのだ。
「見る目、聞く耳それがあれば大丈夫」というおばあちゃんの言葉。
映画の大前提である見る、聞くという感覚。今作はひと際、その人の五感に美しさを訴えかけようとしてくるのだ。
最後に
最後に作中の詩を載せたいと思う。
自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌(てのひら)をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる
この詩から溢れる光の儚さ、美しさをこの映画は体現してる。