劇場からの失踪

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『イニシェリン島の精霊』此岸の自分と彼岸の相手 劇場映画批評105回 

題名:『イニシェリン島の精霊』
製作国:イギリス

監督:マーティン・マクドナー監督

脚本:マーティン・マクドナー

音楽:カーター・バーウェル

撮影:ベン・デイビス

美術:マーク・ティルデスリー
公開年:2023年

製作年:2022年

 

目次

 

あらすじ

1923年、アイルランドの小さな孤島イニシェリン島。住民全員が顔見知りのこの島で暮らすパードリックは、長年の友人コルムから絶縁を言い渡されてしまう。理由もわからないまま、妹や風変わりな隣人の力を借りて事態を解決しようとするが、コルムは頑なに彼を拒絶。ついには、これ以上関わろうとするなら自分の指を切り落とすと宣言する。

引用元:

eiga.com

※以降ネタバレあり

今回紹介するのは『スリービルボード』のマーティン・マクドナーの最新作、『イニシェリン島の精霊』である。今回は「渡る」というキーワードを軸に批評を展開していく。では早速語っていこう。

 

「渡る」という行為は此岸から彼岸へと移る行為であり、言い換えれば彼岸を此岸に変える行為だと表現できるかもしれない。
その「渡る」という運動を踏まえると、この映画には「渡る人」と「渡らない人」がいる。

渡らない人

1923年頃のアイルランド内戦が勃発する中で、イニシェリン島の住民達は皆「対岸の火事」として傍観に徹している存在だ。つまり基本的には島の住民は「渡らない人」達なのだ。彼らは変化を好まない。田舎であり、孤島であるイニシェリン島で同じルーティーンの中で生きており、"問題"は"問題"になり得ないし、そのことに彼らは気づきもしない。
特に「警官」がただの暴漢でしかないことや、彼の息子が虐待されていることを誰も"問題"にせず、また安易にプライバシーが侵される現状も無視されていることに顕著だ。(勝手に窓を覗き込む所作はプライバシーの欠如の表現として上手い)
そんな「渡らない人」の代表はパードリックだ。
彼の人物描写は興味深い。様々なシチュエーション、対人関係における心情の器となりうる寓話性があり、様々な角度からの語り口がある。
彼は「満足」しているのだ。良い人として生きて、周りに「良い人」として認められる人生。彼には夢もなく、欲求もない。妹シボーンと暮らし、友人とパブでビールを飲む。たまにロバのジェニーを家に入れて愛でる、そんな生活に「満足」なのだ。
現状の満足は生活に「不変さ」を求めることである
その「不変さ」は実は本人に限らず周りの人物に強要して初めて叶うことなのだ。その横暴さに彼は最後まで気づかない。コルムの意志を全く尊重せず、ずげずけと関係回復を図る様は、相手の心情を理解することよりも自分の「満足のいっていた日常」の回復に努めているだけであるが故に、横暴なのだ。
彼は周りに「バカ」だとか「退屈」だと言われる描写がある一方で、「良い人」とも言われるのだが、それらの評価の言葉には互換性があり、そこには「(都合)の良い人」という意味が含まれる。「都合のいい」とは場合によるが、基本的には脅威にならない人のことであり、まさにパードリックの生き方はそこに当てはまる。

 

対して、彼の友人であるコルムは晩年に差し掛かるに辺り、生き方を「変える」のだ。彼は僅かな人生を音楽に捧げようとする。その為には音楽趣味を共有できず、「変わらない日常」の象徴のようなパードリックと縁を切る必要があるのだ。別に嫌いになったわけじゃない。ただ生き方を「変えた」のだ。
コルムの心情の倒錯っぷりは面白い。彼はパードリックと対称的に無理やりにでも現状を変えようとする男である。彼にとって現状を変えるとは=パードリックとの縁を切るということでありうるのは、パードリックが嫌いなれない惰性的な日常の象徴だから。また彼が、全てを明確化して相手に伝える、またルールを設けるのも、縛りを自分に課すことで現状を打破しようとしているからなのだろう。
だが「変わる」ことは決して簡単ではない。それはコルム自身の性質と田舎(孤島)というソリッドな環境が要因になっている。コルム自体もまた「良い人」であるため、パードリック本人を傷つけることはしないし、彼が傷つけば助けてしまうのだ。その煮えきらなさが本作の人物描写に厚みを与え、諍いを泥沼化させる。また田舎(孤島)故に、パブ以外に娯楽施設がなく、どうしても顔を合わせてしまう状況も悪く作用する。この田舎の狭さも本作では面白おかしくと描かれていて、広大で神々しい自然に対して、なんと人々の関係性のせせこましいことかと笑ってしまう。プライベートの情報は一瞬で噂話にされるし、どうしても顔を付き合わせてしまうのだ。
(話がズレるが、この二人の諍いは実に西部劇的なのも好印象な部分だった。)

 

同じ穴の貉

そういった二つの要因からコルムは自己矛盾に陥っていく。彼は「パードリックが話しかけたら指を切り落とす」というルールを設ける。それは本来脅しであるべきで、フィドルを演奏するための指を切り落としては、当初の目的である「音楽に人生を費やす」ということが出来なくなるからだ。だが、彼は実際に行動に起こしてしまう。最終的には左手の五指全てを切り落としてしまうのだが、それはもはや倒錯だ。

結局彼も変わろうとするが、変われない人間なのではないだろうか?
そもそも彼はこの島を出ていけば、パードリックと縁を切ることは容易だが、その事に思い至らない。彼もまたパードリック同様に「渡らない人」だからだ
整理するならパードリックは現状に満足しているが故に、周りに「不変」であれと働きかける人、対してコルムは現状に満足せず、周りではなく自分に「変化」をもたらさそうとしている人なのだが、どちらもイニシェリン島という場所に縛られているが故に(つまり「渡らない人」故に)その願いは叶わないのだ。そしてその共通項が彼らの関係性を変化こそすれど、永遠の友情にしているのだ。
この映画が面白いのはその部分であり、コルムとパードリックの二人が道を違えていき、二人の決定的な違いが浮き彫りになり、「永遠の友情」なるものは存在しないとするはずが、いつのまにか二人は「似たもの同士」だと証明され、彼らの関係性は変われど歪になるが、彼らの"友情"は永遠だという話に変わっていくところである。
こんなにも主演二人について洞察をするのも、やはり彼らの人物の造形にこそ本作の魅力が詰まっているから。それを組む立てる会話劇の見事さに唸らされるし、さすがマーティン・マクドナーという感じだ。

 

渡る人

コルムとパードリックの諍いは彼岸で起こっているアイルランド内戦と対比されながら起こっている。本作において彼岸と此岸、あちらとこちら、他人事と自分事の概念は非常に重要であり、そこに彼らの諍いの根本的な原因がある。パードリックは彼岸の出来事に全く興味を持たない人間であり、それは対人関係において、相手の心情への無関心という形で表れる。それが顕著なのはコルムだが、実は最も無関心であるのは妹シボーンに対してだろう。
本作において唯一「渡る人」として登場する彼女は、この島の人々を唯一客観視している人間でもある。コルム同様現状に問題を感じながら、しかしコルムとは違って根本的な解決は島から脱出する他ないことを理解している。彼女の存在によって、パードリックの彼岸への無関心さは強調されるし、コルムの中途半端さも見えてくる

本作において最も重要な楔として、シボーンは登場するのだ。そして彼女の対比であり、同じくあの島の犠牲者でもあるのが、ドミニクだろう。シボーンは博識で聡明な一方で、ドミニクはシェイクスピア劇の道化のような役割にいる。だが、その端々からは悲哀が滲む。彼は言ってしまえば「バカ」なのだが、虐待され、島中に嫌われている現状を変えなければいけないという感覚を持っている人でもある。だが、その方法が分からない。だから彼はシボーンに告白をしたりする。彼は湖で足を滑らして死んだと推定されていたが、その死に方は「渡れなかった人」と形容出来るだろう。シボーン同様に渡ろうとした、だが、渡れなかったのだ。そこに彼の悲哀があると思う。シボーンは彼の結末を知らない。

 

最後に

このようにして、作中の主要4人物は「渡らない人」と「渡る人」に分けることができ、彼らは共鳴するように互いの立場や感情を増幅している。そういった人物相関から生み出される「此岸の自分」と「彼岸の相手」の関係性、そこで如何に関心を持ち、自分事とできるのか。それが本作での教訓であり、その難解さを描いた部分に本作の素晴らしいところは詰まっているのではないだろうか。