劇場からの失踪

映画をこよなく愛するArch(Ludovika)による映画批評 Twitterもあるよ @Arch_Stanton23

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『明け方の若者たち』明け方が綺麗じゃない致命的欠陥 劇場映画批評第29回

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題名:『明け方の若者たち』
製作国:日本
監督:松本花奈監督
公開年:2021年

 

目次

 

 

あらすじ

東京・明大前で開かれた学生最後の退屈な飲み会。
そこで出会った<彼女>に、一瞬で恋をした。
下北沢のスズナリで観た舞台、高円寺で一人暮らしを始めた日、
フジロックに対抗するために旅をした7月の終わり・・・。
世界が<彼女>で満たされる一方で、社会人になった<僕>は、
〝こんなハズじゃなかった人生″に打ちのめされていく。
息の詰まる会社、夢見た未来とは異なる現実。
夜明けまで飲み明かした時間と親友と彼女だけが、
救いだったあの頃。
でも僕は最初からわかっていた。
いつか、この時間に終わりがくることを・・・。

引用:

akegata-movie.com

 

 

Twitterでの"妄想ツイート"が話題となって10-20代の若者層からの人気のカツセマサヒコのデビュー作『明け方の若者たち』の映画化作品。

私も一応その若者層のはずなのだが、一切原作者も原作も知らない状態で観賞した。

 

率直に言って駄作であった。いや、言い直そう。

『佐々木、イン、マイマイン』や『君の鳥は唄える』『僕達は大人になれなかった』『猿楽町出会いましょう』『青くて痛くて脆い』『花束みたいな恋をした』『ボクたちはみんな大人になれなかった』等、ここ2,3年の傑作青春映画が登場した後でなければ、この作品は楽しめたかもしれない。

だがこの映画は傑作映画達以降の作品で、やはり完全な下位互換になってしまっている。既視感と拙い演出に、悪い意味で身悶えさせられてしまうのだ。

 

全然楽しそうじゃない青春描写(明け方描写)

まず決定的にダメだなと感じたのは、北村拓海演じる”僕”と黒島結奈演じる”彼女”が絡みが全然、尊くないこと。こういった青春映画はまず、中心にいる二人への羨望の眼差しがあり、次に自分を重ねてしまう共感性羞恥やそういう関係性に憧れてしまう自分に呆れてしまったりと続いていく感情の連鎖があるはずである。しかし、この映画に出てくる二人はどうしても羨ましいと思えない。

原因としてはまず、二人のデート風景が記号的すぎること。特に自分が驚く通り越して呆れてしまったのは、二人が王将で喋ってるシーン。"彼女"が"僕"に中国語(?)の三択クイズを出して、いちゃいちゃしているシーンなのだが、まったく楽しそうじゃない。後半に効いてくる会話でもなく、ただ「ここはイチャイチャしてる二人のシーン」という記号的に用意されたシーンで、本当に呆れてしまった。如何に『花束のような恋をした』のファミレスシーンが優れていた事か。他にも試着室での連続着替えシーンや、あてどないドライブデートなんかも、記号的で、こっちから「これはイチャイチャしているシーン」だと、歩み寄って羨望を向けなければならない不細工なシーンが何度も繰り返される。

 

また、この映画はタイトルにも入っているように明け方の時間帯が特別な時間として描かれている。作中でも”マジックアワー”と台詞で表現されているわけだが――台詞にしてしまう辺りもダサい――その肝心の明け方の風景が全く美しく撮れていない。『君の鳥は唄える』や『ボクたちは永遠に大人になれなかった』にも同じように泥酔して朝を迎えるシーンがあるが、本作は全くもって駄目だった。

 

青春映画は撮影演出脚本全てを使って、観客の共感を促し、映画に自分を浮かべさせ、浮かれさせなければならない。なぜなら他人のカップルなんて基本はどうでもよいはずで、自分事にならなければ楽しめないからだ。(もしくは”推し”にするか)

しかし、そのどれをとっても彼らの逢瀬は、羨望に値するものにはなっていなかった。

冷ややかな目線でしか彼らを見ることが出来なかった。

 

”普通”なってしまったことと不倫

本作は大きく分けて二つの要素が主人公の苦悩として描かれる。一つは理想と現実の不一致についての苦悩。モラトリアムの出口に差し掛かった大学生たちが、社会人となって理想と現実のギャップに苦しめられるというもので、最初に列挙した作品等、最近の青春映画の典型的な語り口である。そしてもう一つが、結婚している女性に恋をしてしまったという"叶わない恋愛”への苦悩である。どちらも色々な作品が題材にしてきた苦悩で、二つはほとんどの場合、セットで語られる。何故なら、「普通であることを嫌う」や「サブカル趣味」といった共通点を見つけることが、運命的な二人の出会いを演出する方法として確立されているからである。最近はそういった同一化からの恋愛ばかりでつまらないという文句もあるが、今回の問題はそこではない。

 

本作の問題は、二つの苦悩の要素が分離されていて、結局”普通”になってしまったこと以上に”彼女に振られた事”が主人公最大のショックになっていることにある。

この映画の最大の衝撃展開は、彼女が「結婚していること」と「そして"僕"は知ったうえで付き合っていること」だろう。なので、主人公はある程度"恋の終り"を予感しているはずで、それを踏まえてどう”終わり”に対処するのかが本作の見どころになるはずである。しかし、結局人並みにショックを受けて、人並みに未練を感じて、人並みに病んで時間が失恋の傷を癒すという結末。敢えて知ったうえで付き合った設定にしたはずなのに、あまりに普通過ぎる。そして普通な恋愛の幕引きにかまけて、"普通"になってしまったことの苦悩については後半ふれず。

本作は真の意味で、”特別”だと思っていた自分が普通になることの辛さを表現できていないし、それ以上に失恋がしんどいと描いている作品なのだ。ある意味、これまでに描かれた作品の逆を行っている作品と言えるかもしれない。あまりに陳腐だ。

 

また、ここら辺にまつわるシーンで気に食わないのが、「勝ち組」が口癖の友達がねずみ講にハマっていたというシーン。その後に他の友人を呼んで陰口を言うシーンも含めて嫌いである。

このシーンは、主人公がかつて馬鹿にしていた人たちが、しっかり落ちぶれてひどい目にあっていましたというシーンになっていて、非常に悪趣味であるばかりでなく、自分たちがかつて馬鹿にしていた彼らと実はなんら変わりないのだという自覚が一切足りてない浅はかさが露呈しているシーンであるのだ。飲み会のバカ騒ぎを嫌悪していた"僕"が、映画の後半では会社の同期と「エロくないけどエロく聞こえる山手線ゲーム」しているという痛烈な批判の視座はなんだったのか。

また本作が、改めて普通な人達を嫌悪しているのが分かる。まだ幼稚な大学生の心境として描くならいいが、映画そのものがそのメンタルなのはいかがなものなのか。

 

 

若い頃への郷愁にただ酔っているだけで、全く以って”過去”を乗り越えていない、顧みていない。それはただ自分に酔っているだけではないだろうか。そんな主人公が本当に嫌いだった。

 

最後に

この映画には『佐々木、イン、マイマイン』のような過去を糧として力強く生きようとする力強さもなく、『君の鳥は唄える』のような美しいマジックアワーもなく、『僕達は大人になれなかった』のような普通になってしまったことへの悲哀もなく、『猿楽町で会いましょう』や『青くて痛くて脆い』のような心引き裂く失恋もない。

何もない。

 

最後のハイボールの缶がただ下手くそで浅い演出だとか、他にも言いたいがこんぐらいでやめておく。